田島庄・上田島庄(読み)たじまのしよう・かみたじまのしよう

日本歴史地名大系 「田島庄・上田島庄」の解説

田島庄・上田島庄
たじまのしよう・かみたじまのしよう

和名抄」にみえる古代の那珂郡田嶋郷を継承したとみられる庄園。現在の佐土原町上田島・下田島付近に比定される。当庄にかかわる主要文書が大光寺文書として伝来しており、大光だいこう寺が上田島に所在することから上田島庄の表記も田島庄と同義に使用されていたとみられ、両庄は一括される。

〔豊前宇佐宮領〕

宇佐大鏡によれば、寛治七年(一〇九三)国司中原章重の時に田島院司の豊前宇佐宮への寄進申請によって封民四〇人の代として立券された。起請定田は三九町で、長承年間(一一三二―三五)の目録(同書)によれば定田は三九町三反一〇代、その領域は東が那珂懸浪河の西岸の所の際、南は那珂郡の境、西は都於とお(現西都市の都於郡か)の境、北は上大河(一ッ瀬川か)の南岸下浅田の南の大路から懸浪河の北岸とされていた。建久図田帳では宇佐宮領のなかに臼杵郡の田島庄九〇町がみえ、地頭は「故勲藤原左衛門尉」とあり、伊東祐経(工藤祐経)が地頭であったとみられる。このことについて「日向記」は、建久元年(一一九〇)源頼朝から宛行われた伊東祐経の所領に田島三〇町があり、祐経から子息祐時に田島庄九五町が継承され、祐時の四男祐明が田島を相伝して四二歳の時に下向、「田島殿」とよばれたと伝えている。また前掲図田帳には、国富くどみ庄の一円庄に包括される那珂郡内の田島破たじまは(田島院か)四〇町がみえ、地頭は土持太郎信綱(宣綱)であった。南北朝期頃、伊東氏は国富庄内の下田島四〇町を所領としていたというが(日向記)、田数からみて田島破を継承したものであろうか。なお天文二年(一五三三)八月三日の宇佐宮領注文(到津文書)には田島庄一〇町がみえ、宇佐宮は戦国期まで田島庄を名目的に継承していた。

〔伊東氏との関係〕

正和二年(一三一三)八月五日の伊東某袖判田地宛行状(大光寺文書、以下断りのない限り同文書)によれば、「上田嶋庄」内の「葦原池田一町内」の三反と屋敷一ヵ所が蓮光れんこう寺に住僧田として宛行われている。この土地は遠江房長慶の相伝の地であったが、その所縁の人物とみられる新田にゆうた(現新富町)の能観房が夜討殺害をなしたことにより、伊東氏が召上げて蓮光寺の寺田として院主良海に宛行われたものであった。なお良海は上田島庄の持福寺の院主を兼帯していたとみられる。持福寺の院主職には正安四年(一三〇二)一二月五日に当地に古くから関与していた伊東氏以外の一族(弓削氏か)の伊賀坊慶明が補任されており、これ以前には院主職をめぐる舎兄右衛門三郎との争論もあった(伊東某袖判持福寺院主職補任下文)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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