日本歴史地名大系 「田木村」の解説 田木村たぎむら 埼玉県:東松山市田木村[現在地名]東松山市田木・桜山台(さくらやまだい)・白山台(はくさんだい)・旗立台(はたたてだい)・松風台(まつかぜだい)毛塚(けつか)村の西、越辺(おつぺ)川の左岸に位置し、村域は同川に沿う自然堤防・低地から高坂(たかさか)台地の南斜面にかけて展開する。岩殿(いわどの)丘陵・高坂台地からの水を集める急流九十九(つくも)川が東部を南流し、越辺川に入る。九十九川のタキ(滝)が地名の由来であろうか。松山領に属した(風土記稿)。田園簿によると田高二二四石余・畑高一九三石余、旗本横田次郎兵衛(述松)家・同横田甚右衛門(胤松)家の相給。元禄一一年(一六九八)述松領は旗本三間領となる。翌一二年当村名主孫左衛門などが地頭会所へ提出した訴状(久保田家文書)によると、旧地頭横田氏は名主に対して伝馬を貸与し、名主免三町は諸役一切御免であった。 田木村たぎむら 埼玉県:日高市田木村[現在地名]日高市田木・高富(たかとみ)大谷沢(おやざわ)村の南にあり、日光脇往還がほぼ南北に通る。高麗(こま)郡加治(かじ)領に属した(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月、加々美金右衛門(正吉)は「大谷沢之内田木村」五五石を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田六四石余・畑四〇石余、旗本三枝領(五五石)・同加々美領(五〇石)。旗本加々美領は以後幕末まで続く。三枝領分は国立史料館本元禄郷帳では旗本野呂領、化政期には旗本山本領となっており、以後幕末まで変わらない。検地は延宝三年(一六七五)に行われた。南方にある持添新田は享保一〇年(一七二五)に検地が行われ、幕府領(風土記稿)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by