東松山市(読み)ヒガシマツヤマシ

デジタル大辞泉 「東松山市」の意味・読み・例文・類語

ひがしまつやま‐し【東松山市】

東松山

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「東松山市」の解説

東松山市
ひがしまつやまし

面積:六五・二九平方キロ

県のほぼ中央部を占め、東は比企吉見よしみ町・川島かわじま町、西は同郡滑川なめがわ町・嵐山らんざん町・鳩山はとやま町に接し、比企郡を東西にほぼ二分する。南は坂戸市、北は熊谷市・大里郡大里村に接する。古くは比企郡に属していた。現市域の大半は西の外秩父山地に連なる丘陵や台地が占める。東流する都幾とき(越辺川支流)と同川によって形成された沖積低地によってこれら丘陵・台地が南北に二分され、北部は比企丘陵・東松山台地から南部は岩殿いわどの丘陵・高坂たかさか台地からなっている。比企丘陵・東松山台地はさらに市野いちの(荒川支流)や滑川(市野川支流)などの谷によって区切られている。市域のうち宅地・田地が約一七パーセント、畑地は約二三パーセント、山林は約一六パーセントである(平成二年調)。また低地・台地・丘陵と変化に富んだ地形のため坂(傾斜地)が多い。現在、市域を横断する国道二五四号によって東京や川越市、群馬県・長野県と、縦断する国道四〇七号で熊谷市・入間いるま市と、主要地方道東松山―鴻巣線で鴻巣市などと結ばれている。また東武鉄道東上線が通る。なお市名は現市域の中心となった近世の松山町を継承する。

〔原始・古代〕

起伏の多い当市域は原始時代における狩猟生活・農耕生活には好条件を備えていたといえる。旧石器時代の石器出土地として大谷の雷原おおやのらいはら東平の原宿ひがしだいらのはらじゆく中山なかやま石橋の雉子山いしばしのきじやまなどがある。縄文時代に入ると現在のところ草創期の遺跡は確認されていないが、早期のものでは緑山みどりやま遺跡(田木)があり、六〇ヵ所以上の炉穴と竪穴住居跡らしき遺構が発見されている。前期には東松山台地周辺に多くの遺跡がみられる。中期には市域全域で遺跡がみられるようになり、いちかわ前山まえやま遺跡、石橋の岩の上いわのうえ遺跡・塚原つかはら遺跡、田木たぎ舞台ぶたい遺跡では多くの竪穴住居跡と土器・石器が出土した。後期の遺跡は少なく、岩の上遺跡・雉子山遺跡などがあるものの、狭小な遺跡である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東松山市」の意味・わかりやすい解説

東松山〔市〕
ひがしまつやま

埼玉県中部,荒川支流の市野川,都機川の流域にある市。 1954年松山町と大岡 (おおおか) ,唐子 (からこ) ,高坂 (たかさか) ,野本 (のもと) の4村が合体して市制。中心市街地の松山は戦国時代の末期,上杉氏が比企丘陵の一角に松山城を築城したことに始る。江戸時代は日光脇往還の宿駅で,5と 10の日を市日とする市場町も兼ねて繁栄。明治以後は一時衰微したが,1923年東武鉄道東上線の開通により自動車部品工場が立地,その関連工業も発達した。 60年代には東松山工業団地が建設されるとともに,国道 407号線沿いには住宅団地が建設されるなど,宅地化,工業地化が進んだ。 75年関越自動車道が東松山まで開業するとインターチェンジが設置された。箭弓 (やきゅう) 神社,岩殿観音があり,比企丘陵県立自然公園に属する。南部にこども動物自然公園がある。面積 65.35km2。人口 9万1791(2020)。

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