田殿庄(読み)たどののしよう

日本歴史地名大系 「田殿庄」の解説

田殿庄
たどののしよう

現吉備町の、有田川両岸にあった荘園。「田殿庄河北」(嘉禎二年八月七日「高弁遺跡率堵婆銘注文」施無畏寺文書)呼称があることから、河南に広がることが推定される。ただし四至は未詳。「中右記」天仁二年(一一〇九)一一月五日条によれば、熊野参詣帰途、著者中御門宗忠はこの日の宿所宮原みやはら(現有田市)に至り、「今夕田殿五郎来、進御儲物田殿庄従此廿町許云々」と記す。建仁元年(一二〇一)鳥羽上皇の熊野参詣に供奉した藤原定家は、一〇月五日宮原・糸我いとが(現有田市)を通り、「今日偏文義得意等沙汰田殿庄」と記している(後鳥羽院熊野御幸記)。田殿庄の領有関係は未詳だが、摂関家などの熊野参詣のために設立されたものであったかもしれない。

承久三年(一二二一)閏一〇月一二日、あてがわ(現清水町)保田やすだ(現有田市)石垣河北いしがきかわきた(現金屋町)の諸庄とともに当庄地頭職が、「元の如く」湯浅(保田)宗光に安堵された(「関東下知状案」又続宝簡集)。宗光は湯浅一族の祖とされる宗重の子で、一族の実力者。同元年熊野神人の訴えによって対馬に配流されていたもので(仁和寺日次記)、田殿庄地頭職補任はこれ以前となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報