日本大百科全書(ニッポニカ) 「湯浅氏」の意味・わかりやすい解説
湯浅氏
ゆあさうじ
紀伊国在田(ありだ)郡湯浅荘(ゆあさのしょう)(和歌山県有田(ありだ)郡湯浅町)を本拠とする在地領主で、平安中期以降、在田郡一帯に大きな勢力をもつ武士団(湯浅党)を形成した。その出自については、紀国造(きのくにのみやつこ)の末流とも藤原氏とも清和源氏(せいわげんじ)ともいわれるが不詳。湯浅氏発展の基礎を築いた湯浅権守(ごんのかみ)宗重は、紀伊国の在庁官人(ざいちょうかんじん)で湯浅荘をはじめ多くの所領をもつ有力な武士であった。平治(へいじ)の乱(1159)に際して、熊野参詣(さんけい)の途中で京都に引き返そうとする平清盛(きよもり)のもとへ30余騎を率いて馳(は)せ参じ、以後平氏の家人となった。ところが治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱においては、息子上覚(じょうかく)の師である文覚(もんがく)とのかかわりを通じて源氏につき、鎌倉幕府の御家人(ごけにん)へと転身を遂げ本領安堵(あんど)を認められた。その後は湯浅荘地頭職(じとうしき)を相伝する嫡男宗景(むねかげ)の系統が湯浅氏を称し、1231年(寛喜3)には、湯浅の地に党結合の象徴たる施無畏寺(せむいじ)を建立し、これを一族の明恵(みょうえ)に寄進している。湯浅の地は熊野参詣の宿駅にあたり、中央の情勢をすばやく察知しうる位置にあった。それが湯浅氏発展の一つの契機となっている。1275年(建治1)の「紀伊国寂楽寺領阿氐河庄(あてがわのしょう)上村(かみむら)百姓等(ら)言上状(ごんじょうじょう)」(『高野山文書(こうやさんもんじょ)』)で、「ミヽヲキリ、ハナヲソキ」と、その非法を訴えられた地頭は湯浅氏である。
[酒井紀美]
『仲村研著『地頭非法と片仮名言上状』(『荘園の世界』所収・1973・東京大学出版会)』▽『仲村研編『紀伊国阿氐河荘史料 1、2』(1976、1977・吉川弘文館)』