町新庄村(読み)まちしんじようむら

日本歴史地名大系 「町新庄村」の解説

町新庄村
まちしんじようむら

[現在地名]富山新庄町しんじようまち新庄銀座しんじようぎんざ上庄町かみじようまち

常願寺川西方平地赤江あかえ川の東岸にある。北陸街道(巡見使道)が通り、富山城下西水橋にしみずはし町の中間点にある。新庄新町町並が続き、ともに五百石ごひやつこく往来上市かみいち往来・東岩瀬ひがしいわせ道などが分岐する交通の要地。新庄村とも称した。西方を流れる広田ひろた用水対岸の荒川あらかわ村および東の向新庄むかいしんじよう村とともに新庄三箇しんじようさんがと称された(越中志徴)。新庄野の内で、中世には付近一帯は新庄と称されていたと考えられる。戦国期には新庄城があった。天正一〇年(一五八二)二月一〇日上杉景勝が神保信包に「新(庄)三ケ一円」などを与えている(「知行方目録」越佐史料所収川辺氏旧記)。なお中国から請来の経典「裴休拾遺問」の奥書(真福寺善本目録続輯)に、仁治二年(一二四一)一〇月四日「越中国新川郡新条庄」において道願房善縁が書写したとあるが、新条しんじよう庄が当地付近にあたるかは不明。

正保郷帳では高六二六石余、田方三六町七反余・畑方五町、新田高一六一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一千九九石、免四ツ二歩、小物成は野役二二匁・鮭役六三匁・鱒役一匁・鮎川役一一匁、、明暦二年(一六五六)の新田高一〇石があった(三箇国高物成帳)。延宝二年(一六七四)五歩が永引免となり、明暦二年からの町通屋敷拝領高などの減高や天保九年(一八三八)の一〇石余などの手上高により同一一年には打銀高一千一四一石、免三ツ七歩(「高免帳」杉木家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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