日本歴史地名大系 「巡見使道」の解説
巡見使道
じゆんけんしみち
- 富山県:総論
- 巡見使道
幕府巡見使が越中国内巡見のために通行することになっていた街道で、上使往来(上使街道)ともよんだ。「三州地理志稿」によると、巡見使は越中では能登
巡見使道
じゆんけんしみち
- 島根県:総論
- 巡見使道
江戸時代、将軍の代替りに際して全国を査察するため幕府が派遣した巡見使が使用した道。寛永一〇年(一六三三)から天保九年(一八三八)まで九回派遣され、天和元年(一六八一)の派遣以降全国を八地域に分け、将軍の代替りごとに派遣することになった。出雲・石見・隠岐三国は、因幡・伯耆・周防・長門・安芸・美作・備後・備中・備前とともに八地域の一つ中国筋に含まれていた。その道筋は日常巡見使道とよばれることはなかったようだが、道筋は定まっており、その通行時には幕府領の奉行・代官や各藩主は道路を整備し、巡見使応待の準備をするほか、想定問答を作って村役人に練習させるなどしている。一方、巡見使の一行は一〇〇人近い人数になり、旅費実費は幕府から支払われる建前になっていたが、地元の経済的負担も少なくなかった。
天保九年の巡見使については、各地に比較的多くの史資料が残っているので、島根県域にかかわる旅程をたどることができる。巡見使は諏訪縫殿助(御使番三千石)・竹中彦八郎(西丸御小姓番二千五〇〇石)・石川大膳(西丸御書院番二千石)の三人で、一行九二人であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報