日本歴史地名大系 「留村」の解説 留村ますどめむら 京都府:中郡峰山町留村[現在地名]峰山町字鱒留竹野川の支流鱒留川の上流に位置し、磯砂(いさなご)山系と久次(ひさつぎ)山系に挟まれた久美浜街道沿いに集落がある。枝村に大路(おおろ)(呂)村・大成(おおなる)村がある。西は熊野郡、南は但馬国に接する。「丹哥府志」に「鱒留一に益富に作る」とあるように、古くは益富(ますとみ)といった。中世は石清水(いわしみず)八幡宮(現八幡市)領益富保の地。慶長検地郷村帳には高四七二・四六石「益富村」と出、「益富村之内大呂村、大成村」と注記される。延宝九年(一六八一)の延高で六五一石余と増加(天和元年宮津領村高帳)。いつ頃から鱒留と記されるようになったか判然としないが、天和の村高帳では鱒留となっている。 留村とめむら 茨城県:日立市留村[現在地名]日立市留町久慈川下流の左岸低地に位置し、東を茂宮(もみや)川が東流して久慈川に合する。西は下土木内(しもどぎうち)村。「水府志料」によると寛永年間(一六二四―四四)に亀下(かめした)村(現那珂郡東海村)より分村したとあり、元禄郷帳に「留村」と記される。天保一三年(一八四二)に児島(こじま)村を合村編入した。「新編常陸国誌」に明和元年(一七六四)の戸数一一〇・人口四四四、「水府志料」に村の東西一二町余・南北一一町余、文化初めの戸数九〇とある。村名起源について義家伝説がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by