朝日日本歴史人物事典 「畠山義綱」の解説
畠山義綱
生年:生年不詳
戦国時代の武将。父は義続。能登守護,修理大夫。天文21(1552)年,領国の内紛により父義続が引退,家督を相続する。重臣七人衆による支配体制をとったが,七人衆中には遊佐続光と温井紹春の主導権争いがあった。弘治2(1556)年権力の回復と支配体制の強化を意図した義綱は,この争いに勝利した紹春を暗殺し,温井一族を加賀に追う。しかし,これは重臣らの反発を招き,永禄9(1566)年,義続共々能登からの出奔を余儀なくされた。姻戚関係にあった近江六角義弼を頼り,同11年に入国を試みるが失敗。天正5(1577)年に上杉謙信が能登を制圧したことで復帰の可能性はなくなり,能登畠山氏は滅亡。義綱は流浪の末,近江海津に没した。<参考文献>米原正義『戦国武士と文芸の研究』
(石田晴男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報