白滝 幾之助
シラタキ イクノスケ
明治〜昭和期の洋画家
- 生年
- 明治6年3月17日(1873年)
- 没年
- 昭和35(1960)年11月25日
- 出生地
- 兵庫県生野町
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校西洋画科〔明治31年〕卒
- 主な受賞名〔年〕
- 日本芸術院恩賜賞〔昭和27年〕
- 経歴
- 明治23年上京、和田三造の勧めで山本芳翠の生巧館画塾に入り、のち黒田清輝に師事。28年内国勧業博覧会で「待ち遠し」が褒状を受けた。美校を終えて白馬会の創立に参加、第2回白馬会展に「稽古」を出品、認められた。38年渡米、さらにフランスに渡りラファエル・コランに師事、44年帰国。第5回文展に出品の「老人肖像」で受賞。以来官展に出品を続け、帝展審査員を数回務めた。大正11年再渡欧、昭和27年芸術院恩賜賞を受賞した。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
白滝幾之助 しらたき-いくのすけ
1873-1960 明治-昭和時代の洋画家。
明治6年3月17日生まれ。はじめ山本芳翠(ほうすい),のち黒田清輝に師事。明治37-44年欧米に留学。日本的風俗をおもな画題とした。昭和27年芸術院恩賜賞。昭和35年11月25日死去。87歳。兵庫県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「稽古(けいこ)」「裁縫」「野村氏の像」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
白滝 幾之助 (しらたき いくのすけ)
生年月日:1873年3月17日
明治時代-昭和時代の洋画家
1960年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の白滝幾之助の言及
【藤島武二】より
…87年の東洋絵画共進会,89年の青年絵画共進会に日本画で受賞するが,90年同郷の曾山幸彦の画塾,ついで中丸精十郎,松岡寿のもとで初志の洋画研究を開始した。翌年からは山本芳翠の生巧館画学校へ通い,同年明治美術会第3回展に,同じく山本門下にあった白滝幾之助(しらたきいくのすけ)(1873‐1959)の名を借りて油絵の処女作《無惨》を出品した。93年三重県立尋常中学校助教諭として津に赴任したが,同年フランスから帰国した同郷の[黒田清輝]に大きな感化を受け,96年黒田らの[白馬会]創立に参加,また黒田の推薦で同年開設の東京美術学校西洋画科助教授に就任した。…
【明治・大正時代美術】より
…また明治美術会を脱し,フランスの明るく自由な画家社会を理想とする新しい絵画団体[白馬会]を結成,主宰する。黒田は美術学校と白馬会に拠って,藤島,岡田をはじめ,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),白滝幾之助(1873‐1959),長原孝太郎(止水。1864‐1930),中沢弘光(1874‐1964),北蓮蔵(きたれんぞう)(1876‐1949),小林万吾(1870‐1947)ら,明治後期の洋画壇を築いた多くの新人を育てた。…
【山本芳翠】より
…そうした関係で帰国後に開設した画塾生巧館を黒田にゆずり,みずからも白馬会に参加した。古典様式に基づく歴史画や風俗画を残すが,その作風は藤島武二や白滝幾之助(1873‐1960)らに継承された。【酒井 忠康】。…
※「白滝幾之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」