衣類を仕立てるための裁ち縫いのこと。〈お針〉〈針仕事〉などともいう。材料の選択から裁ち縫い,着装,整理,保存の技能までを含む。日本では洋裁,和裁に分かれ,いずれも家庭裁縫(英語ではhome sewing)と家庭外の裁縫とがある。しかし既製服に依存している今日では,衣類のほとんどは工場で生産され,家庭裁縫は非常に少なくなっている。
裁縫は原始時代に獣皮や樹木の葉・皮などを魚や獣の骨で作った針を用いて留めたり,かがったりしてつなぎ合わせたことに始まる。旧石器時代から新石器時代にかけての遺物のなかには骨製の有孔および無孔の針がみられる。また青銅器時代には,それらとともに青銅製のものが用いられるようになる。糸も最初は動物の腱(けん)などを用いていたが,植物繊維にかわる。デンマークの青銅器時代の遺跡からは,スプラングsprangと呼ばれる織物と編物の中間的技法によって作られた帽子が出土しており,縫うという技法は,織物,衣服の形態とも関連した。古代地中海文明の衣服には,縫衣(貫頭衣=チュニック,トゥニカ)と無縫衣(巻き衣=ドレーパリー)とが見られるが,留具やひも,帯などで衣服を形づくる無縫衣に対し,縫衣は両脇や袖を縫い合わせて作ったものであった。一方,寒帯地方では,防寒のため四肢を包み,チュニックとズボンの二部式衣服も着用された。古代ローマ人のトガは,専門のトガ職人によって作られた。
中世になると,男女ともに着用したコットのように上半身がぴったりとし,スカート部分には襠(まち)を入れてゆったりさせた複雑な形の衣服があらわれてくる。仕立ては,単純なものは家庭でなされたが,男子服や複雑で高価な婦人服は,仕立屋の手にゆだねられた。また裁縫用具の進歩とともに手のこんだ技法がとられるようになり,プリーツ(ひだ取り)やシャーリング(縫いちぢめ)などの技法を自由に使ったルネサンスおよびルイ王朝時代の衣服へと発展していった。中世には裁縫師のギルドが形成され厳しい工人の養成がなされたが,単純な形の衣服は家庭の主婦が裁縫にたずさわった。教会が裁縫の技術を教える場所にもなり,婦人たちは集まって裁縫にいそしんだ。また荘園では,裁縫にたずさわる使用人たちの部屋が設けられていた。イギリスでは針もピンも16世紀までは家内製作であり,またボタンの工業などもエリザベス女王(在位1558-1603)時代になってから興った。指貫(ゆびぬき)は1675年にジョン・ソフティングによってオランダからイギリスに持ち込まれたといわれる。18世紀にミシン(ソーイング・マシン)の発明があり,その後改良が加えられて19世紀の初期には広く普及した。また,E.パタリックによって型紙が発明され,ファッション雑誌やファッション・プレートの普及によって家庭裁縫が広く行われるようになった。しかし,産業革命後は織物が大量生産されて衣服材料が豊富になり,既製服および注文服が目ざましく発達したため,しだいに家庭裁縫の内容も異なってきて,衣服の購入,保存,補綴(ほてつ)などに重点がおかれるようになってきた。また第2次世界大戦前後には化学繊維がめざましい発展をみせ,その普及にともない裁縫の技法も変わっていった。
布や皮を縫って衣服にすることは,縄文前期の遺跡から骨針が出土していることなどから考えても,古くさかのぼれると推定される。ただし3世紀の《魏志倭人伝》に見える貫頭衣などは布の中央に穴を開けたきわめて簡単なものが多かったと考えられるので,裁縫技術もあまり発達していたとはいいがたい。《日本書紀》の応神天皇条には百済王が縫女2人を貢じた記事や,呉(くれ)に阿知使主(あちのおみ)らを遣わして縫工女を求めた記事などがあり,また雄略天皇条にも呉からの衣縫兄媛(きぬぬいのえひめ)・弟媛渡来記事が見える。この大陸から渡来した裁縫技術は同時に伝えられた織物技術とともに,おそらく5世紀における畿内を中心とした先進技術であったと考えられる。この技術が衣縫造・衣縫部によって伝えられ,令制では縫殿寮(ぬいどのりよう)・縫部司(ぬいべのつかさ)・縫司の寮司において,縫部・縫女部が衣服の裁縫にあたっている。このほか宮人や京内婦女を役して裁縫させることも行われていた。《延喜式》や《倭名抄》には針・剪刀(ものたちがたな)・熨斗(のし)・錔(およびぬき)・裁板・砧(きぬた)・碓(からうす)・尺などの裁縫具が見えている。平安時代以降になって唐風の衣服から和風の衣服へと推移していくなかで,裁断は単純であり,縫製も直線縫が大部分という,和服の特徴である平面的で直線的な裁縫技術が発達していくが,現在の和裁の基礎ができたのは室町時代とされており,江戸時代初期になって完成されたといわれている。裁縫はほとんど女性の仕事として行われることが多く,江戸時代には女性の修める業として重要視されたため,私塾も開かれ仕立て方に各種の流儀が生まれたが,それぞれ部分的な違いはあっても根本的な変化はなく現在にまでいたっている。
一方,洋服は明治時代初期から着用されだしたが,最初は仕立てあがったものを輸入して着ていたのであり,明治中期ころには〈舶来屋(はくらいや)〉と通称された洋服屋によって仕立てられるようになった。一般に洋裁が着目されだしたのは大正から昭和初期で,婦人服が普及しはじめるにつれて洋裁の技法を習うようになった。洋裁の技法および洋裁用具の普及につれてその影響が和裁にも及び,ことに第2次世界大戦後は和服を立体的に裁断し,洋服生地を使用することなども行われるようになってきている。
裁縫の教育には家庭でするものと学校で行われるものとがある。家庭の教育は子女がかなりの年齢になったとき母親や姉などに手引きされ教えられるもので,明治の初めころまでは主としてこれのみで行われた。江戸中期の貝原益軒の《和俗童子訓》には〈女子は十歳より外に出ず,閨門(けいもん)の内にのみ居て,織り縫ひ,うみつむぐわざを習はしむべし〉といい,また1661年(寛文1)刊の《女式目》には〈女子は早くより女功を教ゆべし。女功とは織り,縫ひ,紡ぎ,濯(すす)ぎ,洗ひ,又は食を調ふるわざを言ひ……〉と説いている。そしてこれらはすべて家庭で行われたのであるが,裁縫は多少師匠に通ったり寺子屋で教わるということもあった。しかし,寺子屋での教習はわずかなものであったらしく,乙竹岩造の調べによると,江戸時代の寺子屋最盛期において,読書,習字,算術,あるいはそのうちの1~2科目とともに裁縫を教えたものは,調査総数のわずかに0.46%にすぎないということである。なお《女式目》に〈女功〉のことばが用いられているが,これはまた〈婦功〉とも〈女紅〉ともいわれたものであり,そして女紅の紅は工に通じ裁縫を主とする家事を意味するものであった。したがって家庭裁縫に関連するものであるが,ときには学校の教育上にも使われたりしたことがある。このことばは中国語にならったもので,中国では仕立屋を裁紅または装紅といったものである。
学校制度の成立にともなって,裁縫はしだいに家庭から学校へ移ることになった。1872年(明治5)に〈学制〉を設定して尋常小学の女児に〈手芸〉の科をおき裁縫の内容を盛ったことに始まっている。79年発布の小学校教育令で女児のために,とくに裁縫の科を設くべきことが規定され,これによって女児の就学率が高まった。81年の小学校教則綱領では〈運針法,単物(ひとえもの)の類,袷(あわせ)綿入の類〉など教授の目標も明らかになっている。しかし,86年改正の小学校令からは,尋常小学校では原則として裁縫をおかず,高等小学校のみに必修の科目となった。90年の改正では尋常小学校に随意科目として認め,またその翌年には裁縫教育の要旨がはっきりしてきている。それによると,〈裁縫は眼及手を練習して通常の衣服の縫方及裁方に習熟せしむるをもって要旨とす〉というのであり,さらに高等小学校においては〈始めは前項に準じ漸く通常衣類の縫方裁方を授くべし。裁縫の品種は日常所要のものを選びこれを授くる際用具の種類衣類の保存法及洗濯方等を教示し常に節約利用の慣習を養はんことを要す〉となった。また1907年の改正では裁縫が尋常科にも必修の科目となっている。その後41年に国民学校となると芸能科裁縫となった。第2次世界大戦後の47年には裁縫は家庭科に含まれ,男女ともに行われている。これらを通じての教育目標は,裁ち縫いの技能の習得とともに整理保存の知識を与え,また節約利用の習慣に導くにあるとされたのである。
女子中等学校では,まず1882年ころ高等女学校に家事科が設けられている。86年東京高等女学校の学科課程表では,裁縫は家事科のなかに合一し,その内容は和服裁縫・女紅・西洋衣食住であったということである。裁縫を和服裁縫のみとしているのは当然であろうが,ここに注目を引くのはその一方に西洋衣食住があり,また女紅の名において家事の一部が教育されたということである。95年には新しい高等女学校規程でふたたび家事と裁縫が二つに分かれ,さらに1901年の高等女学校令施行規則で教授要項が定められているが小学校時代の教育とたいして変わるところはなく,その時代の技能と知識をいっそう高めるにあった。しかし,43年改正の高等女学校令では家庭科として家政・育児・保健・被服の教科がおかれ,そして被服の教授要目としては相当に面目を改めているものがある。それによると,被服の意義を明らかにし,また被服の使命,被服の材料,被服の裁縫と編物,被服の整理などについて教授することになっている。第2次世界大戦後の新制度では,中学校では職業・家庭科のなかの手技の項目にはいっていて自分および家族の身なりを整え,保健および経済に適合するよう経理しうる能力を得させるにあるとし,また高等学校では家庭科被服となり,被服生活の計画,家族の関係と被服の必要量の決定,衣料衣類の選定,被服の保健的・活動的・経済的調製,個性と環境にふさわしい被服の創造と着装,適時の手入れおよび保存,被服原料の生産その他の事情の理解などについての能力を目標としている。また1949年以降の新制大学には,家政学部の1学科としての被服学科,あるいは家政学科のなかの被服科がおかれた。
以上は普通の学校教育の大要であるが,このほかに裁縫専門の学校や私塾がある。1883年3月8日の新聞《郵便報知》には京都の女紅場が紹介されており,ここでは裁縫のほかに女礼式なども教えたもののようである。大正時代にはいって裁縫の学校教育には施設や内容にしだいに変化があらわれてきた。それは洋服の普及につれて洋裁専門の学校があらわれはじめたことである。1923年の関東大地震でそれがいっそう促進され,さらに第2次世界大戦後は決定的となり,かつての和裁学校に代わって洋裁の私立学校が続々と設立され,なかにはすこぶる大規模のものもあり,この種の学校も1950年度より短期大学が設立されるようになった。
執筆者:三徳 四水
裁縫をめぐる行事や俗信は多く伝えられている。正月には仕事始めの一つとして〈縫初(ぬいぞめ)〉や〈初針(はつばり)〉があるほか,2月と12月の〈こと八日〉には針供養が行われ,七夕には乞巧奠(きつこうでん)といって針糸や着物の雛形を吊して裁縫の上達を祈る風習があった。近年まで家族の衣服を整えるのは女の重要な仕事であり,裁縫の巧拙は嫁の評価に直接つながった。また木綿が普及する前は,苧績(おうみ)からはじまり布地を用意するだけでたいへんな時間と労力を要した。このため,布地を裁つ仕事はハレの行事でもあり,吉日を選んだり,〈裁ち祝い〉といって布地に少量の白米や鰹節,裁縫用具を供えてから裁ちはじめる風習もあった。《拾芥抄》には裁衣吉日が細かく規定されているが,民間でもこれに関しては多くの伝承があり,とくに酉(とり)の日が好まれた。また産着は出産前に縫うものではないとか,死者の着物はその日に買った布ではさみやものさしを使わずに大勢で縫い糸尻は結ばないなどふだん行わない仕方で作るという。このほか,出針や着物を着たまま縫うことも嫌われ,袖を片方つけっぱなしにすると仏の着物になるとか縫いはじめた着物に年を越させるな,横にあてつぎするなというなど禁忌や俗信は非常に多い。
裁縫用具も神聖視され,ものさしをまたぐと出世しないとか,針箱を逆さにすると貧乏になってふだん着にさえ困るという伝承がある。とくに針箱や苧桶(おぼけ)は女の分身とされ,嫁入道具の一つでもあったが,他人の針箱をいじると指が腐るとか女房の針箱をのぞく亭主はそれだけで村の笑いものになることもあった。また針箱は女の私物入れともされ,へそくりを意味する用語にもハリバコギン,ハリバコセンというのがある。
執筆者:村下 重夫
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衣服を仕立てるために用布を裁断し、縫い合わせること。縫い物。明治以降、洋服裁縫の技術が導入されてから、和裁、洋裁と区別してよぶようになった。古くは「物裁(ものだ)ち」「物縫い」「お針」「針仕事」などといった。3世紀ごろの日本人が着ていた貫頭衣(かんとうい)、袈裟(けさ)式衣は簡単な裁縫であった。しかし邪馬台(やまたい)国の卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)に献じた緜衣(めんい)は、真綿を入れて仕立てた麻の上衣といわれる。応神(おうじん)天皇のとき(4~5世紀)に百済(くだら)王が衣縫工女(きぬぬいおみな)を献じ、雄略(ゆうりゃく)天皇のとき(5世紀)には呉(ご)より衣縫の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)を招請している。中国、朝鮮との交流により、二部式の北方系衣服を採用するとともに、裁縫技術の導入も図ったとみられる。7、8世紀には隋(ずい)・唐風の衣服裁縫の影響を受け、技術面で飛躍的進歩を遂げた。正倉院に残る綾(あや)や、細糸の麻の袍(ほう)の仕立て技術は精巧を極めている。大宝令(たいほうりょう)(701)によると、宮中の裁縫所として中務(なかつかさ)省に縫殿寮(ぬいどのりょう)、大蔵省に縫部司(ぬいべのつかさ)が置かれていた。10世紀後半の『うつほ物語』には、縫物所で集団で縫製する記述があり、自家生産から交換商品の生産が行われ始めたのがわかる。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、柔(なえ)装束から強(こわ)装束に移行すると、こわばった厚地の裁縫により技術の精緻さは失われた。この傾向は、女房装束から江戸時代の武家衣服にも及んでいる。16世紀になると南蛮風俗を部分的に取り入れて、曲線の裁断、縫製も行われ、陣羽織などのデザインに斬新(ざんしん)なものが生まれた。庶民衣料は、木綿が普及する近世まで麻が主で、長針を用いた、つかみ縫いの簡粗な裁縫であった。
その後、江戸時代になり経済力をもつ町人が出現すると、一般の衣服も豊富になり、裁縫技術も進展をみせた。娘たちは家庭において、その親から、または、お針師匠のもとや寺子屋に通って、示範、口伝による指導を受けた。この時代には裁縫は女子の必修の業とされ、嫁入りの資格でもあった。「女訓物(じょくんもの)」「女式目(おんなしきもく)」などでは裁縫を婦道の一つにあげている。一方、公家(くげ)装束のためには山科(やましな)家、高倉家がその調進にあたっていた。呉服間(ごふくのま)は大奥に仕えて、将軍、御台所(みだいどころ)の衣服の裁縫をつかさどり、呉服所は大名や高家の御用達をした。御物師(おんものし)、針女(しんみょう)は雇われて針仕事をする女であった。物縫屋、仕立物屋などは男職人で、羽織、帯、袴(はかま)の類は、これを専業とする仕立屋が存在した。僧衣を仕立てる衣屋(ころもや)もあったが、寺院の尼僧も裁縫を行った。足袋(たび)屋のなかには、股引(ももひき)、半纏(はんてん)、腹掛け、手甲(てっこう)などをも仕立てるところがあった。
[岡野和子]
和服は直線裁ちで、一定の裁ち合わせができる簡便さがあるが、江戸時代中期までは反物の幅尺が一定でなく、9寸から2尺余りまで各種あったため、むだ布を出さない裁断法は至難とされた。1690年(元禄3)刊行の『裁物秘伝抄』以後の裁縫書も、大部分が裁図で占められている。裁縫書は男性の著述になり、内容的にみて専門の仕立職人が用いたとみられるが、江戸時代末期刊行のものには一般向きとみられるものもある。1872年(明治5)には尋常小学校の女児に手芸科が置かれ、ついで1879年発布の小学校教育令で裁縫科が設けられ、以来、初等・中等教育において裁縫教育が重視されてきた。第二次世界大戦後は、洋服の普及で和裁教育は低下し、家庭における裁縫も減少しつつある。現在、和裁の技術について、東京商工会議所と厚生労働省で実施している検定制度がある。
[岡野和子]
洋服裁縫の必要が生じたのは、幕末の開国によって外国人居留地が設けられ、滞在する西洋人が出てきたことと、洋式軍服が採用されたことによる。1870~1871年(明治3~4)にかけて陸海軍服、官公吏制服、警察官、郵便配達員、鉄道員服などが相次いで洋式となり、翌年には太政官(だじょうかん)布告によって、礼服は衣冠を祭服(さいふく)として残すほか、すべて洋装とする旨が達せられた。筒袖(つつそで)、股引などの仕立てにあたったのは長物師(和服仕立師)、足袋職、法衣(ほうえ)屋、更衣屋(古着屋)、袋物職人たちであった。1864年(元治1)長州征伐の兵が着用したレキション羽織と段袋(だんぶくろ)を納めた沼間守一は、イギリス軍人の古服を解体して型紙を試作したといわれる。
1883年には、政府の欧化政策により鹿鳴(ろくめい)館が開設され、上流階級の婦女子の間に洋装模倣時代が生まれた。そのころ東京女子師範学校では教員・生徒が洋服着用の先鞭(せんべん)をつけた。洋服の需要に応じて呉服屋の越後屋(現、三越百貨店)、白木(しろき)屋(後、東急百貨店日本橋店。1999年1月閉店)呉服店では、外国人の裁縫師を雇い入れて洋服部を設けた。横浜の居留地に開かれた舶来屋では、外国人西洋服師が裁縫にあたったが、注文増加に応ずるため日本の職人を募って養成し、そこで技術を習得した人々のなかから、独立して横浜に、ついで東京、神戸に洋服屋を開く者が出た。日清(にっしん)、日露の両戦役では大量の軍服製作の必要に迫られ、その後の祝賀会、舞踏会、園遊会では競って洋服が着用され、洋裁技術の進歩を促した。
1862年(文久2)宣教師夫人ブラウンは横浜に婦人洋服店を開いたが、ここで婦人服の裁縫技術、ミシン使用法を学んだ沢野辰五郎(たつごろう)をはじめ、彼女によって多くの日本洋装界の先覚者が育成された。このように外国人より直接指導を受けた者のほか、独学で技術を身につけた例もある。明治初期から中期にかけて、独立して洋装業を開いた者は徒弟を養成した。親方の仕事ぶりをみながら勘で技術を習得する方法がとられ、年季終了後お礼奉公をしてから独立することができた。ミシンは1860年(万延1)に、遣米使節の通詞(つうじ)として渡米した中浜万次郎(ジョン万次郎)が初めて持ち帰り、その後、東京・芝の洋服屋植村久五郎に買い取られ、軍服調製などに使用されたという。1868年(慶応4)には幕府の開設した開成所から、「西洋新式縫物器機伝習と仕立物の注文を受ける」との広告が『中外新聞』に出されている。1871年(明治4)には慶応義塾内において仕立局が設けられ、これはのちに丸善洋服部に移った。翌年ドイツ人サイゼン女史により、築地(つきじ)居留地で日本婦女子のための洋裁学校が誕生し、ついで各地にも教習所が広まった。
1873年には勝山力松による『改服裁縫初心伝』が、最初の洋服裁縫書として刊行された。これには、礼服(燕尾(えんび)服)、平服(フロックコート)・達磨(だるま)服(詰め襟)、背広服などの裁ち方が、鯨(くじら)尺により詳述されている。ついで1878年には『西洋裁縫教授書』が原田新次郎訳で出版され、採寸、製図、グラジュー尺(比例尺)とインチ尺の図引法、補正などが紹介されている。明治20年代になると、女性の洋服流行から『男女西洋服裁縫独(ひとり)案内』などが刊行された。最初の服装雑誌が刊行されたのもこのころである。男子洋服は軍服、官服、制服が採用されたため、大量な需要による既製服が明治初期からつくられたが、婦人服は上流社会のものとして注文仕立てが主で、日清・日露戦争の際の看護服に、初めて既製服が生まれた。
大正時代中期になると生活改善運動が起こり、洋服は女学生の制服、運動服、一部職業婦人服、子供服、肌着などに広まり、関東大震災(1923)、白木屋の大火(1931)などを契機として、洋服化の機運が高まった。これに伴い洋裁教育普及のため、明治末期にまずシンガー裁縫院が設立され、大正末から昭和になると各地に洋裁学校がつくられた。また女学校においても洋裁が教科書に採用された。昭和の初期には最初のスタイルブック『服装文化』が出版され、女性雑誌の付録に洋裁が扱われ、家庭洋裁の便に供された。第二次世界大戦後、和服より洋服への革命的転換期を迎えたが、積極的に欧米のモードを導入するとともに、新しい洋裁技術を開発している。中等教育の場では、型紙使用による洋裁の簡易化が図られている。現在、洋裁の技能について、厚生労働省で実施している紳士服製造(注文服、既製服)、婦人子供服製造(同前)などの検定制度がある。
[岡野和子]
明治以前、学校の教科に入らないころは、農閑期に街の仕立屋とか近所の婦人などについて裁縫の技を習った。裁縫は女性にとって生涯の大きな役目であったから、競って技を磨いた。したがって針仕事の上達を祈願する風習は数多く知られている。まず、正月の仕事始めであるが、神奈川の沿海地方では2日の縫い初(ぞ)めに、ヒウチという小さな三角の袋をこしらえる。そしてそれは14日のサイト焼きの竹に吊(つ)るしておいて焼くのであるが、針仕事の上達を願っての行事である。また、七夕(たなばた)には着物の雛型(ひながた)をこしらえて、軒端(のきば)や七夕の竹に吊るして織女を対象として祈ったのは、各地でよく知られた風習である。針供養(はりくよう)は、日ごろ使った針に感謝する日といわれ、関東では2月8日、関西以西は12月8日というが、地方によっては1月16日(長野県)とか庚申(こうしん)の日(山口県)としている所もある。こんにゃくや豆腐に折れ針を刺し、淡島神社に納める。もちろん当日は針仕事はしない。この行事は江戸時代以後におこったものと考えられ、とくに街に仕立屋という職業ができてのちに盛んになったものと思われる。
裁縫に伴う禁忌俗信も多い。布を裁つ日を選ぶとか、糸のもつれを解くとき、針をなくしたとき、着物を着たまま縫うときなどに唱えることばなどが伝わっている。「寅(とら)と八日にもの裁つな、いつも袖(そで)に涙あふるる」などは裁つときを選ぶ際の諺(ことわざ)であるが、和歌の形として覚えやすくしたものも多い。買い切り裁ちとは、布を買ったその日のうちに裁つこと、ひっぱり縫いは、2人で一つのものを縫うことや糸の尻(しり)を結ばずに縫うことで、これらは針仕事のタブーであるが、どれも葬式のとき死者の着物を縫うときの習俗なので、平常は嫌ったのである。また出針(でばり)といって外出直前に針を使うこと、裸で物を縫うこと、朝、針を使うこと、人に針を貸すこと、夜、針を買いに行くことも禁忌であった。出針と同類であるが、四国・九州の漁村では、出船に先だって針を使うことは嫌う。着物の袖を縫ったり、袖付けをするとき、両袖を同じ明かりで縫うべきものとされ、昼と夜の明かりですることは嫌った。つまり袖の片方だけで仕事を中断すると、その着物は不幸をもたらすといわれていた。衿(えり)付けも同様、途中でやめると幸福が逃げてしまうといわれている。できあがった着物を、まず柱に着せるという着はじめの習俗も広く知られている。
[丸山久子]
『堀越すみ著『資料日本衣服裁縫史』(1974・雄山閣出版)』▽『関根真隆著『奈良朝服飾の研究』(1974・吉川弘文館)』▽『洋服業界記者クラブ日本洋服史刊行委員会編・刊『日本洋服史――1世紀の歩みと未来展望』(1977)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…和服の裁ち縫い。〈お針〉〈仕立て〉〈裁縫〉ともいう。今日のような繊細な縫い方が行われるようになったのは,小袖が定着した江戸初期ころという。…
…お針子ともいう。日本では,近世に裁縫を〈お針〉とか〈針仕事〉と呼ぶようになり,江戸時代には大名などの衣服を仕立てる呉服所で,針妙(しんみよう)と呼ばれる裁縫をする女性が働いていた。裁縫技術は,江戸では家庭で身につけるのが一般的であったが,上方では縫物師のところや寺子屋でも習得した。…
※「裁縫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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