百塚村(読み)ひやくづかむら

日本歴史地名大系 「百塚村」の解説

百塚村
ひやくづかむら

[現在地名]富山市百塚

神通川下流左岸、呉羽山くれはやま丘陵の北端はつヶ山の東方に位置。東をうしくび用水が流れ対岸山岸やまぎし村、北西は百塚新村。村名は縄文時代の穴居生活の跡をのちに塚と解して名付けられたことに由来するという(婦負郡志)婦負郡に属し、寛永一六年(一六三九)以降富山藩領。山岸村の枝村。戦国期富山城の出城があったとされる。寛永一六年富山藩分藩のおり、藩主前田利次は百塚での築城幕府から許可されたが、万治年間(一六五八―六一)に至り築城を断念、富山城を居城とすることとした。この間に百塚野は武士商人の屋敷地の造成で賑わった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報