日本歴史地名大系 「百済寺村」の解説 百済寺村ひやくさいじむら 滋賀県:愛知郡愛東町百済寺村[現在地名]愛東町百済寺・市(いち)ヶ原(はら)現町域の北東部に位置し、西は湯屋(ゆや)村・中里(なかざと)村・読合堂(よみあいどう)村(現湖東町)、南は上中野(うえなかの)村・市ヶ原村・大覚寺(だいかくじ)村・平尾(ひらお)村、東は箕川(みのかわ)村(現神崎郡永源寺町)、北は平柳(ひらやなぎ)村(現湖東町)と接する。近世には大萩(おおはぎ)村・上山本(かみやまもと)村・下山本村・北小屋(きたごや)村・北坂本(きたさかもと)村を含んで百済寺村と称したが、明治一六年(一八八三)五村が合併して百済寺村となった。鎌倉期に百済寺付近は比叡山無動(むどう)寺領であった(建暦三年二月日「慈鎮所領譲状案」華頂要略)。百済寺山野は奈良興福寺領鯰江(なまずえ)庄の百姓が利用していたが、奈良大安寺領池(いけ)庄の百姓が新しく山野を利用したため相論となった(「近江鯰江庄百姓等申状」東大寺所蔵建治元年跋華厳宗香薫抄草裏文書)。文亀三年(一五〇三)には兵火のため百済寺とともに門前の民家まで消失した。古記録なども消失したため、永正元年(一五〇四)伊庭貞隆は百済寺境内の四至を安堵した(百済寺文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by