下山本村(読み)しもやまもとむら

日本歴史地名大系 「下山本村」の解説

下山本村
しもやまもとむら

[現在地名]棚倉町下山本

塚原つかはら村の南、久慈くじ川西岸、南東端で同川に合流する近津ちかつ川北岸の丘陵に立地。貞和二年(一三四六)頃と考えられる新恩所領注文(白河証古文書)高野たかの郡南方のうち「山本 手沢 以上二ケ村」とみえ、建武二年(一三三五)の中先代の乱によって闕所地となって伊達氏に与えられたが、その後本主らが返還幕府に訴えていた。明徳三年(一三九二)五月三日の良源二所熊野檀那職譲状(八槻文書)に「山本郷内清内」とみえ、住人五郎二郎子孫の檀那職が治部殿(都々古別神社別当八槻氏か)に譲られている。天文四年(一五三五)伊勢太悦は八槻近津宮へ「山本きそ」のうち五〇疋(五〇〇文)の地を寄進している(一〇月一八日「伊勢太悦寄進状」八槻文書)


下山本村
しもやまもとむら

[現在地名]愛東町百済寺ひやくさいじ

百済寺五ヵ村の一つで、上山本村南西に位置する。見聞集(百済寺文書)によれば高四〇〇石。元禄八年大洞弁天寄進帳に「百済寺下山本村」とみえ、男二二一・女二〇九。「木間攫」に「此里ヲ、百済寺村ト云也。彼寺ノ表坂ノ下ニ有村也。往古、此所モ院内ナリシト云」とあり、高四一五石余。


下山本村
しもやまもとむら

[現在地名]富士宮市山本

上山本村の南、潤井うるい川右岸の平地高原たかはらと称する小丘に立地する。寛永改高附帳に下山本村とみえ、田方七九石余・畑方二三石余。元禄郷帳では高一八五石余、ほかに下山本新田高二〇石余。国立史料館本元禄郷帳によれば幕府領および旗本安藤領・同曾我領。享保一六年(一七三一)の駿府代官所村高帳(明治大学刑事博物館蔵)では幕府領分の高一五石余。文化一三年(一八一六)には旗本杉浦領があり、当村に同氏の陣屋が置かれていた(測量日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android