相楽庄(読み)さがらかのしよう

日本歴史地名大系 「相楽庄」の解説

相楽庄
さがらかのしよう

荘域は不明であるが、建久五年(一一九四)四月日付の前斎院庁寄進状(宝簡集)に「寄附高野蓮華乗院領壱処事 在紀伊国字相楽南部庄四至見御券」とみえ、また史料の多くに相楽南部庄と連称されている。しかし相楽庄・南部庄はそれぞれ別個の荘園であることは、治承二年(一一七八)閏六月二一日付の造日前国懸宮役請文案(書陵部蔵壬生家古文書)に、「謹請 造日前国懸宮殿舎相楽南部所課事」として「相楽御庄」とみえ、「国懸宮神殿西端間内参尺付壇礎石」の夫役が課せられていることや、宝治元年(一二四七)七月日付の造外宮主典頼高言上書案(続宝簡集)

<資料は省略されています>

とあることで知られる。


相楽庄
さがらかのしよう

古代の相楽郷(和名抄)の地に成立した荘園で、近世相楽さがなか村の地域に比定される。治承二年(一一七八)閏六月二〇日付の造日前国懸宮役請文案(書陵部所蔵壬生家古文書)に「相楽御庄」とみえ、皇室領であったと思われる。他に史料がなく詳細は不明だが、「師守記」貞和元年(一三四五)一一月一一日条に「相楽御米三石到来」、同三年一〇月一六日条に「今日左近太郎自相楽上洛、御米三石到来、又下司安堵料百疋致沙汰、御代始分也」、同五年一〇月二八日条に「今日相楽焼石餅到来」などとみえるので、大炊寮領として継続したものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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