日本歴史地名大系 「相模土手」の解説 相模土手さがみどて 宮城県:登米郡中田町相模土手中田町上沼の大泉(うわぬまのおおいずみ)から浅水の水越(あさみずのみずこし)に至る、北上川右岸の約六・六五キロに及ぶ大築堤。仙台藩初頭の大治水工事で、工事を主宰した初代寺池(てらいけ)城(現登米町)城主白石(伊達)相模宗直の名を冠している。慶長九年(一六〇四)白石宗直は采地一千一〇〇貫文を得て寺池城に移ることになった。しかし城は大破し領内は荒廃したままで、やむなく水越の地に滞留一ヵ年にも及んだ。当時登米低平の地には北上・迫(はさま)の両河川が乱流するまま広大な谷地(湿原)が広がり、ほとんど田圃をみぬ状況で、河水の統御が領内統治の先決問題と痛感された。そこで開拓のことは治水にありとし、藩の公許を得て北上川河道を変更し、新たに堤防を築き疏水を開削し、大泉村より水越村長谷(はせ)山に至る三千六五七間の堤防を構築し、慶長一三年袋中(ふくろうち)(大泉・上沼・桜場・弥勒寺・水越)を護岸する土手が成就した(登米藩史稿)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by