治水は文字どおり水を治めることであるが,河川の氾濫や高潮による被害から住屋,集落,耕地などを守るために堤防を築いたり,河川の流路そのものを変えたり,河川の水流・水量を制御調整するための諸工事を行ったり,河底の土砂をさらえ,流水に障害となる岩石を除去することなどがあげられる。また河川交通の安全や発展のため,河川流路を整備したり運河を開削することもその一つである。さらに水田の開発や安定的経営のために池,溝,堰などを設けることも治水であり,農業生産における基本的な事業である。
とりわけ農業生産の発展・安定のための治水は,灌漑とともに人類文明の発生・形成の過程において重要な位置をしめてきた。かつてウィットフォーゲルは,いわゆる〈水の理論〉をもってアジアの中央集権的官僚国家の基礎を治水・灌漑に求め,アジア的社会の停滞性を強調した(《東洋社会の理論》)。しかしこの理論は,今日では十分な説得力あるものとはみなされていない。本項は,社会の構造を解く理論問題からのアプローチではなく,古代文明を開花させ,農業生産を基本としてきたアジアにおける治水が,それぞれの地域の歴史展開のなかで具体的にどのようであったかを,とりわけ中国,南アジア,西アジア,エジプト,そして日本を通してみようとするものである。日本については治水政策の現代的な課題をも対象とした。なお治水と密接な関連をもつ〈灌漑〉の項をもあわせて参照されたい。
水利工事の歴史は,有名な禹の治水の伝説さえあるほどに,その広大で複雑な地形のもたらす過酷な自然条件を反映して,きわめて悠久な伝統を有する。のちには〈水を制する者は天下を制する〉の言も生まれたように,氾濫する大河への対策,黄土地帯における灌漑と土地改良,南北を結ぶ人工的水路の開削は,国家経済の繁栄にとっても不可避の問題であった。このため,古くは《書経》禹貢,さらに《史記》河渠書,《水経注(すいけいちゆう)》などの専門的書物が生まれたほど,水系の把握は歴代王朝の政治的課題となった。ただし文献的には,黄河の大堤の建設,運河の邗溝(かんこう)の開削などは春秋時代にさかのぼり,小規模な灌漑工事は西周時代に行われていたことが知られるものの,本格的で大規模な水利工事建設は,戦国時代に始まったようである。
《史記》河渠書には,戦国時代の水利技術者として,蜀の李冰(りひよう),魏の西門豹(せいもんひよう),韓の鄭国(ていこく),前漢の汲黯(きゆうあん),鄭当時らの名が見える。前256年蜀の太守に任ぜられた李冰によって建設された都江堰(とこうえん)は,これらの古代水利工事のうちでもとくに著名である。四川省成都灌県の岷江(みんこう)に築かれ,人工的に山を切り開いた宝瓶口から岷江の河水を成都平原の灌県に導き入れるもので,川の中央に魚嘴(ぎよし)を築いて東側の支渠と西側の岷江本流とに二分するが,飛沙堰を設けて支渠に流入する水量を調節する措置が施され,灌漑と防洪の両面を具備した点に特色がある。前246年に鄭国が設計,建設した鄭国渠(きよ)は,陝西省涇陽県から涇水の水を東に引いて洛水に注ぎ入れる全長200km近い工程で,関中平原を灌漑し,塩漬地の改造をもたらした。また〈井渠法〉は,前漢武帝のときに関中平原の竜首渠で創始された。陝西省徴県(澄城)から洛水の水を引いて商顔に至り,3kmにわたって商顔山(鉄鐮山)を貫通するもので,重泉(蒲県南東)地方を良田に改造した。これは数多くの井を掘り,それらを地下の深所で互いに連絡するもので,新疆地方に見られる〈カナート〉と同様の構法になる。
自然水害に対する防御工事としては黄河の大堤が代表的である。春秋時代に始まり,下流地区は戦国時代には築成され,それがしだいに天上川を形成したが,下って明・清時代にはより本格的な大堤が建設された。沿海地区の堤防は,江南地方では六朝時代に土塘が築かれ,唐代には石塘も出現した。明・清時代にはいっそう整備が加えられ,浙江省一帯には全長150kmの堤防が築かれている。人工的な運河の開削としては,秦の始皇帝のとき統一完成された霊渠が最初の本格的な工事で,長江(揚子江)と珠江を連絡し,長さ20kmに及んだ。隋の煬帝(ようだい)が建設,整理した大運河は,古代世界で最大の運河に数えられるもので,元代に現状のように修築された。北京から杭州に至る全長1794kmにわたって,海河,黄河,淮(わい)河,長江,銭塘江の五大河川を互いに連絡し,南北間の交通運輸の大動脈として,歴史上に多大の役割を果たすものでもあった。
執筆者:田中 淡
ところで広大な中国ではその諸地域によって自然条件も違い,華北の黄河,華中の淮河そして長江に対する人々の対応の仕方も大きな差があった。治水の観点からすれば,黄河の治水の歴史がもっとも古く,かつ歴代の統一王朝にとって黄河を治めることは最重要な課題であった。黄河の治水は禹の伝説から始まる。彼は父鯀(こん)が水流に逆らって失敗したのを見て,九河(黄河水系の諸川)を導いたと伝えられており,放水路を造って水の流れに沿って黄河を治めたと思われる。おそらく当時(戦国初期?)は,労働力と土木技術に照らして分水法が最上とされたのであろう。その後人口が増加し,鉄器の使用が普及して土木技術が発達すると多くの渠が造られ,《史記》河渠書には〈運河の数は億を以て数う〉と記されている。その多くは交通漕運と河水分流を主目的とし,〈余水を以て灌漑する〉ものであった。統一国家の成立とともに,治水も全般的に計画されてくるが,初めて黄河水系の総合治水プランをたてたのは前漢哀帝時代の賈譲(かじよう)である。彼は,冀州(河北省)の民で水路にあたる者は移住させ黎陽(河南省)の遮害亭を決潰させて黄河を北流させるのが上策,冀州で多数の渠を開き,分水,漕運,灌漑を図るのが中策,現在の堤防を補強して水と力を争うのは下策といっている。この策はどれだけ実行されたか不明であるが,その後の治水方策の要をついていると思われる。後漢の王景は汴渠(べんきよ)を修復して滎陽(けいよう)から千乗の河口に至るまで流路を改修し,10里に1水門を設け分水回注させて洪水を防いだ。黄河の分水方式はこれでだいたいの原型ができたといえよう。
漢代に麦作がされていた淮河流域は,魏・晋以後水田が多くなり,無理して陂塘(ひとう)が造築された結果洪水が多くなった。また12世紀初め,黄河が南流して淮河の河流に流れ込むようになり,中・下流は土砂にふさがれて洪沢湖にも流入し〈大雨大災,小雨小災,無雨旱災〉の悪状況を繰り返した。南宋以来種々の治水策が論議され,工事も実施されたがさしたる効果なく,1853年(咸豊3)黄河が再び北流するようになってもたびたび洪水の被害があった。中華人民共和国になって蓄洩兼籌(貯水・排水の計画)をスローガンに,上・中流地区にダムを設け,河道を浚渫(しゆんせつ)し,洪沢湖を水量調節の湖とし,ここから直接に海辺までの水路を新設する等,治水・灌漑の両面の努力をした結果,ほぼ安定した河川となった。
長江の治水で問題になるのは三呉の地(太湖,上海付近)と荆江の地(武漢,洞庭湖)の両地である。前者は宋のころまでは比較的人口も少なく,高地に居住していたため大きな問題にならなかったが,宋以後経済的中心となると,この地の治水問題も論議の中心となり,范仲淹,単鍔(ぜんがく)等多くの水利家からいろいろの案が出されたが,内容はだいたい次の4点に要約される。(1)四方の高地から太湖に流入する水を少なくするため,太湖への河川をせき止め,その水を長江その他の河川に流入させる。(2)太湖の水は北東隅の凹処から淞江,長江に流出させる。(3)太湖の水位は海面とほとんど同じなため満潮のときは海水が逆流し,田地拡大のための埋立てとともに河道に泥がたまる淤塞(おそく)の原因となっている。これを防ぐため堰を造って海水の逆流を防ぐ一方,圩(う)でクリークの水位を高め排水をよくする。(4)閘門(こうもん)を設けクリークの水位を一定に保ち水運を便にする。范仲淹以来の諸説も,閘に重点を置くか,渠に重点を置くか,また太湖の水を排出するのにどの河川を軸にするかの差はあっても大同小異で,上記の4条の枠内におさまる。いま一つの荆江の地帯では,洞庭湖をはじめ多くの湖は宋以後干拓が進められつつも遊水池の役目を果たしてきた。中華人民共和国では三峡東端に大ダムを造って洪水を防圧し,同時に1500kW/hの発電をおこし,左岸に閘門を設けて1万トン級の船の航行を可能とし,併せてその水をトンネルによって丹江を経て黄河に流すことを計画し,工事中である。
中華人民共和国の水利工事は,一言にしていえば,南水北上と回流多用(海に流入するまでいろいろの用途にあてる)を目標として,近代化による用水多量化に対処しようとしているといえるであろう。
執筆者:米田 賢次郎
南アジアは典型的なモンスーン気候に属し,6~7月の南西モンスーンの到来とともに雨季にはいり,河川も増水していく。古代インダス文明も雨季のインダス川の増水と氾濫を利用した溢流灌漑に農業的基礎をおいていた。秋口になって洪水がひくとともにコムギを播種した点は,エジプトやメソポタミアの古代文明の場合と類似する。しかしインダス文明の下では,水利をめぐる権力的な集団組織体制は形成されなかったと考えられている。それは一面では,灌漑水利や洪水調節のための大規模な治水工事があまり必要でなかったことを示している。もちろん当時も小用水路は建設されていたし,また《リグ・ベーダ》にも井戸などの小規模灌漑への言及がみられる。仏典のジャータカ(本生譚)には,マガダ国の水田が灌漑水路や畦で方格状に区切られ,また堤防で区画されていたことが記されている。前5世紀ころのガンガー(ガンジス)川中流域にはかなり整備された灌漑水利施設が存在していたようである。古典時代のプラーナ(ヒンドゥー教の聖典の一つ)文献には飢饉のきっかけとなる農業への六害として,干害,水害,蝗害(こうがい),鳥害,鼠害,外国の侵入があげられている。これらへの対策のうち古代以来南アジアで最も力が注がれてきたのは,水害よりも干害の防止のための灌漑水利事業であった。
現在に残る古代の主要な灌漑水利工事には,マウリヤ朝時代の前4世紀末に西インドのカーティアーワール半島で河流をせき止めて建造されたスダールサナ人造湖,また後2世紀ころに南インドのカーベーリ川デルタ頂部に建造されたアニカト石造堰堤がある。以後,14世紀中期のトゥグルク朝のフィーローズ・シャー王により建設された西ヤムナー用水路をはじめ,19世紀になってイギリスによって旧パンジャーブ州,現ウッタル・プラデーシュ州西部,タミル・ナードゥ州などで進められた諸水利工事も,主として灌漑を目的とするものであった。これらはいずれも河川に堰堤を設けて取水し,取水口から延びる用水路により灌漑を行うとともに,用水路の一部の水運利用を目ざすものであり,洪水調節の機能はもたなかった。
洪水調節のための治水は,1947年のインド・パキスタン分離独立とともに始まるといってよい。インド共和国では,早くも48年に洪水調節を重要目的とするダモーダル河谷総合開発が着手された。また,54年の大洪水を契機に全国治水計画が策定された。同計画は,大きくは多目的ダムの建設による河川流量の管理と堤防,排水路の建設による都市,村落,耕地の保護とからなっている。1951/52年度から始まった五ヵ年計画も,灌漑,水力発電と並んで洪水調節のための投資を見込んでいる。たとえばビハール州北部の荒れ川として名高いコーシー川の総合開発では,洪水調節用の築堤工事を含んでいた。全国治水計画発足後の25年間に,インド全体で約1万1000kmの堤防と約1万9000kmの排水路が建設されたが,なお大きな効果をあげるにはいたっていない。78年にもガンガー平原一帯が大洪水に見舞われ,大きな被害があった。
執筆者:応地 利明
治水事業は,ティグリス川,ユーフラテス川とナイル川に集中して行われてきた。メソポタミアに中央集権的な国家を建設したバビロン第1王朝のハンムラピ王は,ユーフラテス川とティグリス川を結ぶ大運河を幾本も開削し,それらを無数の小運河で結ぶことによって,毎年5月に起こる洪水を統御するとともに,両河の水を灌漑水として有効に利用する体系をつくりあげた。この治水組織はアケメネス朝やササン朝でもほぼそのままの形で保持されたが,イスラム時代に入ると,ウマイヤ朝(661-750)のイラク総督ハッジャージュ・ブン・ユースフは,大排水路を設置して南イラクの大湿地帯(バターイフ)を干潟化することに成功した。またバグダードに都を置いたアッバース朝(750-1258)は,バビロニア時代以来の運河網を改修・整備するとともに,ササン朝時代に開削されたティグリス川の上・下流点を結ぶナフラワーンNahrawān運河を復活,これによってイラク中・南部は帝国随一の穀倉地帯に変貌した。しかし10世紀以降は政治的混乱によって治水事業はおろそかにされ,モンゴルによる征服戦争も水利機構に大きな損害をもたらした。イル・ハーン国やオスマン帝国の時代にはいくつかの復興事業も試みられたが,かつての状態を取り戻すまでにはいたらなかった。現在のイラク政府は,土地の塩害化を防ぐためにティグリス・ユーフラテス川流域の灌漑機構を整備することに農業開発の主眼を置き,また,これと並行して1976年からは,治水・灌漑・発電用にモースル・ダムとハムリーン・ダムを建設中である。
エジプトのナイル川は,9月末から10月初めにかけて最高水位に達する。運河の開削や貯水池の設置によって,定期的な増水と,この増水がもたらす肥沃な泥土を有効に利用することが,古代以来,歴代君主の最も重要な農業政策とみなされてきた。第9,第10王朝では運河の開削が行われたことが碑文に伝えられ,第12王朝期には第2急湍付近に水位計(ナイロメーター)が設置された。イスラム時代に入ると,アスワンとフスタート近くのローダ島に水位計が建設され,ナイルの増・減水はさらに正確に計測されるようになった。ファーティマ朝(909-1171)のカリフやマムルーク朝(1250-1517)のスルタンは,冬の農閑期を利用して農民の力役(スフラsukhra)を徴発し,アレクサンドリア運河のような大運河の開削・補修,湛水用の灌漑土手(ジスル)の建設などを行った。また運河には毎年大量の泥土が堆積したから,力役を用いてこれを清掃することも,重要な治水事業の一つであった。1872年,カイロの北に大堰堤(デルタ・バラージュ)が完成すると,増水期にだけ利用する従来の運河から,渇水期でも利用可能な通年運河への切替えが順次行われ,綿花やサトウキビなどの夏作物の栽培面積は飛躍的に増大した。1902年にはアスワン・ダムの完成によって水量の調節がいちだんと進み,次いで70年のアスワン・ハイ・ダムの完成はナイルの増・減水を完全に統御することを可能にした。しかし,これによって肥沃な泥土をもたらす古来の定期増水も失われ,以来エジプトは施肥農業への転換を余儀なくされている。
執筆者:佐藤 次高
水田稲作の発展と平野部での定住住居,集落の形成にともなって,灌漑用水路としての大小の溝や,河川の氾濫から集落や耕地を守るための大溝や土手が建設された跡が弥生時代の遺跡・遺構から発掘されている。鉄製の農具・工具が著しく発達し普及した古墳時代からは,そのような治水事業は大規模になった。さらに自然湧水地や低湿地に堤防を築いて灌漑用水を貯水する池も,古墳時代には大型化し,平野部の開発は飛躍的に進んだ。大溝のなかには灌漑と水運に共用されるものもあったが,河内の古市大溝などは古市古墳群地帯と大阪湾とを結ぶ運河としての役割がむしろ主ではなかったかと考えられている。仁徳天皇による難波の堀江の開削や茨田(まんだ)池の築造の伝承も,古墳時代における治水事業を象徴するものであろう。律令国家は治水をきわめて重視し,とくに大宝令では,堤防,池,溝など治水に関する行政は民部省所管とし,国司・郡司をその任に当たらせ,その費用はあらかじめ正税を出挙(すいこ)してこれにあてさせた。堤防にはニレやヤナギなどを植えさせて補強を促し,池・溝の小破は用水を受ける家に修築させた。761年(天平宝字5)の遠江国荒玉河堤の修築,翌年の河内国狭山池の修築,また785年(延暦4)の淀川と安威川とをつなぐ水路(神崎川)の開削などはその例である。また行基や空海に代表されるような僧侶による資金調達・労働編成による池溝開発があったことも忘れてはならない。律令国家の治水事業はすでに8世紀中期ころには破綻をみせはじめ,初期荘園では土豪が私財を投じて治水・開発事業を展開しはじめている。11世紀になると浪人集団を率いた開発請負業者まで登場している。
12世紀になると治水と開発とが武士団形成の要件となっていたし,丘陵上や山腹に谷池を築造することが多くなり,扇状地への開発が進んだ。また12世紀以後,東大寺派,西大寺派や浄土教系の僧侶による勧進活動の一つとして,治水事業にも取り組まれることとなった。重源や忍性の活躍は知られているが,西大寺僧による備中国成羽川の開削は,水運とかかわっていることと,中国渡来の石工がこれに参加していることで注目される。この頃には土豪,農民が地域の治水事業に積極的に参加しはじめた。池の築造に名を残しているのはもとより,山城国西岡の十一郷に灌漑する今井溝の管理・運営は著名であるし,淀川の氾濫から水田を守るため築かれた摂津国島上郡内の犬の縄手(畷),千間縄手(畷),また木曾,長良,揖斐の3河川の乱流から集落と耕地を守ろうとする輪中の形成も,中世に始まっている。さらに大和に多い環濠集落には,堤や井手板を設けて水防を企てているものもある。
執筆者:三浦 圭一
近世の治水には二つの側面がある。都市とくにその町人町部分の水害からの防御と,年貢納入の基盤としての水田の安全を守り,新規水田の開発を可能にするためのものである。大平野地帯に立地する都市では,この両者が表裏の関係をなすこともあった。たとえば,古代に朝廷の所在地ともなった難波(大坂,大阪)の地は,常に都市の治水と,耕地の治水・開発は相伴っていた。この傾向は戦国後期以後,各地に広まった。城が領国支配の政庁の意味を重くするとともに,山城から平山城,平城へと位置を替え,領国内の最大生産地帯の中心部へと移っていく。その地は沖積平野の一部にあり,沖積作用を進める河川の定期的な氾濫の影響を受ける。城自体は平野の一隅の丘陵の突端にあっても,一部の家臣団の住宅や商人町は,平たん部に成立する。この地を河川や海の増水から守ることは,大部分の都市の問題となる。その最初の方策は排水用の堀川の造成や盛土であっても,やがて周辺河川の堤防の造成や河川の瀬替えへと進んでいく。戦国諸侯のうち,領域の拡大から,進んで全国統一を志すにいたった人々にとっては,戦闘力の基礎である経済力の向上・発展は欠くことができない。そして稲作を年貢の中心とする日本にあっては,稲作安定のための治水・灌漑工事が前提となるので,大河川下流では多くの河川には村落と主要耕地を守る村囲いの堤がまず造られる。輪中である。しかし徐々に川自体を押さえる方向に向かう。たとえば甲州における武田信玄の国中平野への進出と釜無川の治水は,この時代の治水の代表的なものである。信玄の治水法は,信玄堤の造成と御勅使(みだい)川の釜無川への流入点の変更である。信玄堤は竜王地点では自然流に近く設けられるが,南へ下るとともに川から離れ,築地新居・飯喰地点では1200mを隔て,断続した8個の堤が笛吹合流点まで雁行している。以後徳川氏の治水,江戸初期の治水を経て,江戸中期には多くの出し堤を備えた連続堤が完成する。このような永年の治水によって,釜無川沿岸13ヵ村は慶長(1596-1615)ころから宝暦(1751-64)に至る150年間に石高を76%増している。
都市の治水が沿岸耕地の開発と密接に関係した例は大坂に最も著明にみられる。大坂の北西部で淀川と大和川とが合流していた近世中期以前の状態では,淀川は多量の土砂を河口に堆積し,大坂および周辺地にしばしば大水害をもたらした。さらに河内の現大和川以北の地に沼地・湿地を多くし,頻繁な水害をもたらした。豊臣秀吉は1594年(文禄3)に伏見から大坂までの淀川両岸に堤防を築き,河村瑞賢は1684年(貞享1)九条島の開削(安治川)を行い,全河道を改修した。淀川水運を可能にするとともに,淀川河口新田の開発がこの頃からみられる。その後1704年(宝永1)にいたって,大和川下流の南への付替え工事が行われると,河内,摂津の低地は生産力の最も高い地帯となり,新田開発も大いに進んだ。江戸の場合も,荒川・利根本流,渡良瀬川がすべて江戸湾(東京湾)に注ぐ状態では洪水害は絶えなかった。それら諸河川の永年にわたる河道の整理,とくに利根川を太平洋に導く瀬替えによって,下町の主要部分の安定の度を増した。大河川の瀬替えは古く1605年(慶長10)三河の矢作(やはぎ)川について行われている。
秀吉が造った先述の淀川堤防の実態は明らかでないが,たぶん後にみるような連続堤ではなかったに違いない。農書,地方書に記されるところも,江戸時代前期には,耕地の一部への浸水を認める霞堤や二重堤であり,中期から長い連続堤を造っても,所々に増水が堤を越えて流れ込みうる低所をもった洗い堤(溢流堤)であった。堤外の耕地は流作場として石高も低く定められ,洪水の多い年には収穫をあきらめた。1682年(天和2)ころの著述と推定される《百姓伝記》の巻七は防水書である。この書は,河川の大小,山寄りの出口から海に至る距離の差によって川の性状の異なることを説いたあと,大河の堤は二重堤がよいという。田地は二重堤の内部に造り,その前の土地は〈流れ田地〉と呼び,大増水のときは二つ目の堤で水を防ぎ,流れ田地を捨てよという。また二重堤を造らないときは川幅を広くして,あふれた水が浅くゆるく流れるようにせよとしている。二重堤は二つとも根敷・馬乗(馬踏)を広くし,堤を低くするとして,水流を狭い河川敷に閉じこめることは考えていない。広い河川敷の中を流れる水が堤防の近くを流れる場所では,堤の幅をさらに広くし,堤の腰に杭を打ち,しがらみを造り,蛇籠(じやかご)を伏せることもある。川の曲り目や水が常に堤を洗う場所には,木枠を組んで石をつめる石枠を作る。川の流れを変えて,対岸に向かわせるためには〈さる尾〉があり,これは川へ突き出す小堤である。石枠,さる尾は,ともに先を川下へ向ける。蛇籠は割竹で作るのがふつうだが,藤蔓,蔦,細く割った木なども使われ,なかに石をつめて,急流の激突する所や荒波の打ちつける所に用いる。木材3本を組み合わせる牛枠も知られている。中期以後大構造物になっていく治水の多くの手段が用いられながら,河川を狭く押し込めることは考えていないのである。この《百姓伝記》の記述の特色の一つは,このほかに川の瀬替えや,潮除けの工法の詳しいことである。川の瀬替えや港の掘替えの際の中心工事を〈みよとめ(水脈止)〉といっている。流れの中心の深い所を止めることである。その例として慶安(1648-52)ころの尾張の熱田新田(現,名古屋市)の例や,先に記した矢作川の瀬替えなどに触れている。
新田開発には,海岸の干拓のほかに大河川の乱流地帯の荒地の開発がある。ともに灌漑用水を要するが,戦国期から江戸時代初頭にかけては,諸河川の谷間からの出口,増水時に多くの乱流に分かれるあたりの治水をして,一番井を設けた例が知られる。その際には信玄が御勅使川の瀬替えに使った将棋頭のような,上流部に三角形を突き出した石堤を設け,さらに流入量を調節する石門を設けたのであろう。1759年(宝暦9)の《地理細論集》は治水発達の流れを概観して,宝永(1704-11),享保(1716-36)ころから治水工事が堅固になり,水路をまっすぐにし,堤防で囲い込むため,水流は強くなったといっている。連続堤を造り,それを高くし,多くの護岸工事を施すようになるのである。それらの工事は幕府・諸藩の勘定方に治水の功者を生むとともに,農民のなかにも治水の知識を広めた。《在方普請帳》(写本)は神尾(かんお)若狭守の命で幕府普請役元締の直井伴六が1754年に著したものであるが,酒匂川から天竜川に至る東海道の大河,甲斐の諸河川の工法を記している。それには諸河川の各部分の勾配,川幅,流路の土質など特徴を記し,そこに適する工法が述べられている。高い連続堤を造り,出し堤,多様な枠や蛇籠を使った水制工を設けて,大河川の氾濫を守る江戸時代の治水工法が,この時期にほぼ完成しているのである。
同書によって,信玄の扱った釜無川のようすを簡単に記そう。釜無川は信濃境から川原部(現,山梨県韮崎市)までは滝同然の急流,そこから竜王までは1000分の10くらい,以下は1000分の3くらいの勾配である。川原部~竜王間は石積みの出し堤を場所によって3間から20間ばかり,高さ1間から2間のものを造り,川表には根籠,立籠を二重に造り,出しの頭には棚牛,笈牛を置く。籠出しも用いる。竜王の下流は両側とも土堤で,堤高は8~9尺から2間まで,馬踏9尺から2間の大堤で,それに蛇籠を何組か継ぎ足した籠出しを設けている。蛇籠は五~七重に重ね,その頭には牛枠類を前囲に置く。洪水で大破したときには,その水を対岸にはねるために大聖牛を作って,流れに向けて入れるという。同一河川でも上流部と下流部では石堤,土堤と工法が違う。釜無川下流の富士川が海岸平野に出たあたりも治水困難の場所である。左岸加島新田開発の際には雁堤(かりがねつつみ)と呼ばれ,川に向かって遠ざかったり,近寄ったりする屈曲する連続堤を造っている。それらの様相は明治20年(1887)前後の2万分の1地形図にはっきりその形状を残している。享保から宝暦にかけて,江戸時代の治水工法はほぼ完成し,諸大名の御手伝普請や幕府普請方の御普請,諸藩の手になる普請,村人の手による村請普請と,多様の方式で治水は進められる。それによって,1720年代以後が一つ新田開発の盛期となるのである。
執筆者:古島 敏雄
明治維新以後,日本政府は河川技術面でも西欧技術を積極的に導入し,活発に河川工事を始めた。明治初期には主としてオランダ技術者の指導を受け,舟運や灌漑用水の取水のために,低水時における流路を整え,流水幅を制限して水深を増す低水工事に重点が置かれたが,やがて大水害の頻発と河川行政の整備とともに,洪水防御を目的とした高水工事に力が注がれるようになった。その契機となったのは,1896年制定の河川法であり,これによって主要河川に対する大規模治水事業が推進された。さらに翌97年には砂防法,森林法が制定され(河川法を含めこれらを治水三法と称した),日本の近代的治水行政体制が整備された。
明治中期から始められた治水事業の中心は,平野部を流れる大河川においては10mにも達する高い堤防を連続的に築き,曲がりくねった河道の場合はまっすぐに短絡し(ショートカット),下流部においては洪水流を処理するための放水路を海に向けて開削するなど,洪水流を一刻も早く海へ出すことに主眼が置かれた。もっとも,急流河川などにおいては,堤防を連続させず,雁行状に築いて所々に開いた部分のある霞堤を採用したり,氾濫流を和らげる水害防備林などによる治水方法も引き続き用いられていた。
昭和に入ると,ダム技術が飛躍的に発展し,それまでもっぱら電力開発に対して築造されていたダムが,洪水調節に対しても有効であることが欧米において実証されてきた。これを受けて,日本でも,鬼怒川改修工事の一環として五十里ダムの建設に着手したが,大断層ゆえに難航し,1933年工事半ばに中止され実現はしなかった。39年ころからは,河水統制事業の名のもとに,洪水調節を主目的とするいくつかのダム計画が実施された。その典型例は1938年に着手された相模川の相模ダムである。第2次大戦のためその完成は47年になったが,このダムは洪水調節とともに発電用水力,農業用水開発をも目的とする,いわゆる多目的ダムであった。第2次大戦前における多目的ダムとしてはアメリカ合衆国ミシシッピ川水系テネシー川のTVAの事業が特に名高い。この事業は1933年に開始され,20以上の多目的ダム建設を核とし,洪水防御,発電,舟運などの目的を達し,テネシー川流域の総合開発に成功した。技術的に見れば,大規模ダム建設を可能としたダム設計や施工技術の著しい進歩に負うところが大きいが,それと同時に,総合開発を軌道に乗せた計画手法,ダム貯水池の運営を可能とした水文学,ダム構造のための構造力学,材料工学,水理学などの発展もまたこの種の技術革新を遂行させた原動力であった。
しかし,日本において洪水調節ダムが広範に採用されるようになったのは,第2次大戦後,1950年制定の国土総合開発法以後のことである。戦後の著しい水害の連発や食糧増産のための用水確保などのために,さらに,これらを一括する流域総合開発を標榜する政策にとっても,多目的ダム建設はかっこうの要であり,脚光を浴びるにいたった。戦争の終わった1945年から戦後復興期を経て高度経済成長にさしかかる59年までの15年間は,日本水害史上でも類例を見ないほど,すさまじい大水害の連続であった。特に45年9月の枕崎台風による広島をはじめとする西日本の水害,47年9月のカスリン台風による関東,東北地方の水害(特に利根川,北上川の大破堤),50年ジェーン台風による大阪湾の高潮,53年6月末の梅雨前線豪雨による九州の水害をはじめとし,54年9月の洞爺丸台風,58年9月の狩野川台風,59年9月の伊勢湾台風などによる大災害は,戦争の痛手から立ち直ろうとする日本の国土開発に立ちはだかる足伽(かせ)となったといえる。これら一連の大水害の原因としては,この時代に大型台風や激しい梅雨前線豪雨がたまたま集中したことや,戦争とその後遺症のため,治水事業や国土基盤の建設が十分に行われていなかったことなどが考えられる。これに対処するため,前述のダム建設を含む治水事業が,経済復興とともに徐々に行われるようになり,60年代以降大規模水害は著しく減少するにいたった。
しかし,高度成長は著しい都市人口の増加を伴い,都市とその周辺を中心とする土地利用の形態を一変させ,それが新たな都市水害を各地に発生させるにいたった。全国的な宅地開発ブームによって,従来の水田や低湿地などが宅地となり,豪雨時の排水不良とともに,河道への洪水流出量を増加させ,それらが新興住宅地を浸水しやすい土地としがちである。前述の狩野川台風の際に,東京の山手地区にこの都市水害が現れ,以後都市化の波を追うがごとく,人口集中の低平地などにこの種の都市水害が波及していった。
77年以降,建設省は総合治水対策の名のもとに,特に人口増加の著しい都市河川流域を対象に,従来の河川改修やダムなどのハードな治水事業に加えて,流域内に雨水を滞留させる方策,水害に強い土地利用の推進,避難体制の強化,水害被災者の救済制度,水害危険地域の公表など多面的で総合的な治水対策の推進を打ち出した。元来,治水は堤防,ダムなどの施設のみによって完結するものではなく,流域の土地利用,住民の災害への対応などを含めた,総合的観点から対処しなければならないものであり,それは古今東西を問わず,治水の原理である。77年以降の日本の総合治水対策は,変転きわまりない治水と水害の相克を経たあと,現代的視点での治水原点への復帰と考えられる。
治水計画の目的は,その川に生ずる大洪水を安全に流し去り,かつ豪雨などによって低地などにたまった雨水を速やかに排出して,水害を発生させないようにすることにある。次に現在日本で行われている治水計画の方法および手段などについて略述する。
まず,どの程度の大洪水に対処できるようにするかを定める。その程度は,守るべき地域の重要性,河川の重要度に応じて異なるが,特に重要な河川においては,200年に1度発生する程度の激しい豪雨による大洪水を安全に流し去るような河川計画が立てられる。以下,重要度に応じて,150年,100年,80年に1度程度の流域内豪雨による洪水に対応できるように計画を立てる。計画対象となる豪雨の程度については,過去の実績降雨群の資料について確率計算を行って求め,その降雨パターンから河道の洪水パターンを解析計算によって求める。洪水パターンは,ハイドログラフhydrographと称する,時間と洪水水位または洪水流量との関係を表す図によって示される。上述の解析計算によるハイドログラフ群から計画ハイドログラフを定め,これを基準にして諸検討の結果を総合的に考慮してその治水計画において基本となる洪水(基本高水)を決定する。河川は上流から下流へと流れ下るにしたがって,次々と支川が流入したり,派川が分かれたり,また湖沼との間で洪水流をやりとりしたりするので,ハイドログラフの形は次々と変化していく。したがって,計画ハイドログラフは,河道に沿う重要拠点ごとにそれぞれ定められている。
基本高水が定まると,その流量をまずダム群による洪水調節流量と,河道を流過させる流量とに配分する。たとえば,ある地点での基本高水流量が1万m3/sであった場合に,その上流部のダム群で3000m3/sまで調節する計画であれば,その地点の河道で受け持つ計画高水流量は7000m3/sとなる。河道部分ではこの流量を安全に流過させるように河道の横断面を設計する。すなわち,川幅,堤防の高さ,河床の掘削土量などがそれによって定められる。計画高水流量が流れる場合の水位を計画高水位と称し,その高さは堤防の頭(ここを天端(てんば)という)ではなく,安全度をみて,それよりいくぶん低くしている。この計画高水位と天端高の間を余裕高といい,重要河川では2.5~3mとなっている。
治水計画は上流から下流まで一貫して統一されたものでなければならず,かつ洪水流には大量の土砂が含まれていることにも対処しなければならない。日本の河川上流域には,地すべりや土石流を発生しやすい地形・地質の区域が少なくない。その対策として全国各地の上流域に明治中期以降,継続的に砂防事業が行われており,山腹砂防,渓流砂防ともども日本特有の工法も発達している(砂防)。平野部に流れ下った河道部では,堤防を主体として,治水目的の河川改修工事が行われる。洪水流の流れをよくするためのショートカットや放水路はもとより,ときには平野部でも遊水池を設けて,洪水流の一部を一時的にここに蓄え,洪水のピークが過ぎ去ったのちに再び河道に戻すという方法もとられる。そのために堤防の一部を低くし,ある程度洪水位が上昇すると,この部分から洪水流を遊水池へと流れ込ませるようにする。この部分の堤防を越流堤と称し,洪水流が越流しても破壊しないように特別にがんじょうにしておく。一般の堤防も破れれば氾濫による水害を招くので,破壊しないように細心の注意を払って,堤防の設計,施工,維持管理に努めることは,治水の重要な狙いである。堤防を中心にして,いくたの施設が治水効果をあげるように配置される。堤防自体を護るための護岸にも,昔からそれぞれの時代の技術,材料に適応した工法が施されてきた。堤防の前面に配置される水制もまた,古今東西において用いられてきた治水施設の一種であり,その材料,工法などに時代の変遷,国ぶり,ひいては治水策の一端をうかがい知ることができる。水制によって川の流れを誘導し,あわせて堤防を保護する役目を担わせることもできる。水制には千差万別の種類があり,かつその組合せ,配置によって流水制御の効果が異なり,そこに治水技術の妙を発揮することが期待される。したがって,個々の水制の型,大きさ,設置の場所や方法,さらに水制群の配置などで治水技術の特質,川の性格を知ることもできよう。
以上は主として治水目的に対し,河道に治水施設を設ける手段であり,現在の治水策の基本であるが,さらに上述手段と同時に,流域内においてさまざまな方策を施すことによって対応しなければならない。それは前述の総合治水対策でも述べたとおりであり,その具体的手段はその時代,その地域の特性に応じたものでなければならない。すなわち,洪水をわれわれが完全にはコントロールできないものである以上,水害を完全に撲滅することは不可能に近い。とすれば,その被害を最小限にすることが現実的対応であり,たとえば氾濫をある程度許容することを考えるのも,治水の重要な側面である。そのためには,流域の土地利用,住民の住まい方,農業などの産業立地,住民の水害意識などを把握して,それらに応じた適切な手段を講ずることが重要になる。日本でも明治時代までは,平野部の川沿いの低地では,氾濫を前提とした農耕を採用していた地域が多く,少々浸水しても大被害を受けない作物が栽培されていた。また低地の農家のなかには家屋を盛土の上に建てて高床式にしたり,あるいは水屋と称する避難部屋を住居の高所に用意するなど,さまざまなくふうをこらして氾濫に対処するのがむしろ普通であった。堤防も現在の日本のように整備されているのはむしろ例外であり,多くの国々では平野部でも無堤,もしくは自然堤防のままの所が多い。日本でもかつては無堤部は水害防備林に相当する樹林帯を設けたり,堤防があっても,万一の破堤に備えて二番堤,三番堤と称する控えの堤防を設けることが多かった。一方,堤防が破堤などの危険にさらされた場合には,地元の水防組織が水防に当たり,その技術も相当に高かった。このように水害に対しては,流域全体で住民ともども対処するのが治水の常識として定着していた(水防)。
しかし,河川技術の進歩によって,破堤氾濫の頻度は近年にいたって激減し,そのため流域住民の出番も減ったため,地元の水防技術も衰え,ひいては住民の水害意識も変化し,河川管理者への信頼が高まるとともに依存意識も強くなったといえる。とはいえ,水害の根治はきわめて困難であるので,今後とも,基本的には,水害に対しては流域全体で対処し,具体的内容は時代とともに異なるとはいえ,住民もまた治水への役割の一端を担うべきものと考えられる。
治水事業は年とともに進捗し,現在の日本の治水水準は往時と比較すれば隔世の感がある。とはいえ,治水は河川の整備水準を上げるのと正比例してその実をあげるとは限らず,治水事業の進展とともに新たな課題がつねに生ずるのが,治水の難問といえる。前述の水害に対する住民意識の変化もその表れの一つであり,住民のニーズが高まれば,治水の水準もいよいよ高くしなければならなくなる。
治水に関する河川事業の大規模化に伴い,それによる河川および流域への自然的および社会的影響も大きくなりつつあり,その対策がまた重要になってきている。ダムはもとより大規模河川改修によって,洪水のパターンは変わり,それに伴い河川の流送土砂の状況が変われば,ダム貯水池の滞砂,ダム下流の河床低下をはじめ,河川景観,生態系を含む河川環境が変化する。ダム建設に伴う水没家屋,住民,財産などの社会的環境の変化も大きい。それらの影響によって,流域住民に大きな障害を生ずることがあれば,その対策もまた広義の治水であり,社会の高度化・複雑化に伴って,治水の内容も変質し複雑化するゆえんである。このように治水の本質を広義に理解すれば,〈水を制する者は天下を制する〉という中国の古くからの諺は,総合的であり有機的であらねばならぬ治水の本質を巧みに表しているものといえよう。
→洪水 →水害
執筆者:高橋 裕
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… 一概に勧農と言っても,それが行われる時期や地方によって,その内容や施行の方法に相違があり,農業生産の発展の度合と生産を担う農民の生活実態とに規定されて,農業振興策が異なる。戦国末~近世初期には,農業振興策の基軸は大規模な治水土木工事による耕地開発であった。この時期は日本の治水事業史上,大規模工事の一大盛況期をなし,領主による直接の掌握下で治水灌漑工事が積極的に推進された。…
…
[農民の国役]
幕府による大規模普請や御用人馬の通行に際して関係諸国の幕領,私領一円の農民に国役が課された。
[治水国役]
国役を動員して行われる河川普請は国役普請と呼ばれる。近世前期の国役普請においては,普請人足が農民から国役として徴集された。…
…この結果主作物たる稲の灌漑用水を不十分にすることから,二毛作の制限が生じたりする。 1700年に近づくころから,大河川の治水が始まる。その進行とともに大河川の川口近くの開拓や干拓が大規模に行われる。…
…フランスでは工兵士官養成や軍事技術の研究のために1747年土木工学校が,さらに,94年にはエコール・ポリテクニクが創立され,土木技術の組織的な教育が始まった。このように土木技術は軍事技術の一翼として発達してきたが,一方ではそれらとは異なる橋,運河,治水,道路舗装など,産業,市民生活と密着した分野へもその成果がとり込まれるようになり,1750年ころから,イギリスにおいてこれら市民生活の基盤を形成する土木技術に対してcivil engineering(土木工学)のことばが用いられるようになった。学会の歴史も工学分野としてはもっとも古く,1818年イギリスで世界最初の工学学会としてイギリス土木学会が設立されており,T.テルフォードが初代会長になっている。…
※「治水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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