中田町(読み)なかだまち

日本歴史地名大系 「中田町」の解説

中田町
なかだまち

[現在地名]高岡市中田など

庄川下流右岸に位置し、東は芹谷野せりだにの丘陵北部。中田村ともみえる。北は下麻生しもあそう村、東は常国つねくに村、南は東保ひがしぼ(現砺波市)。北陸街道(巡見使道)が通り、その宿駅として町場化していた。朱鳥元年(六八六)当地貞杉さだすぎ社が建立されたと伝える。その後般若野はんにやの庄庄司が夢のお告げにより八幡社を建立、良田を得たので奏聞に達したところ、中田の地名を得たという(「越中古記録」加越能文庫)。文明一三年(一四八一)光闡坊蓮誓は「越中国礪波郡般若野庄中田村」に一宇を建立、徳成とくじよう(中田御坊、現運源寺)と称したという(勝興寺系譜)。永正(一五〇四―二一)末年、円如は中田坊の存続を決定している(反故裏書)。天正一四年(一五八六)五月、上杉景勝が上洛の途上、中田において増山ますやま(現砺波市)城主中川清六の接待を受けた(「上杉景勝上洛日記帳」山形県米沢市立米沢図書館蔵)。慶長一〇年(一六〇五)には庄川の中田村船渡場が許可され、同一三年中田村七郎兵衛は五本松の御印を得たが(「中田五本松御印写」高岡市立中田図書館蔵)、その松は昭和初年まで当地のシンボルであった。


中田町
なかだまち

[現在地名]古河市中田

利根川東岸に位置。日光街道に沿った街村で、中田宿を形成していたが、大正初年以来再三の「引堤ひきてい」と称する河川敷拡幅工事のため、旧村域「元地もとち」の北端の一部を残して中田宿の北への出口一帯「移転地いてんち」へ移った。地名は文明一八年(一四八六)京都を出た道興の歌日記「廻国雑記」の古河の次に

<資料は省略されています>

とみえるが、文書では天文二三年(一五五四)の梅千代王丸足利義氏充行状写(野田家文書)に「上中田」「下中田」とある。

河川改修工事などで破壊されたが、かつては中田から中田新田坂間さかまにかけて散在した中田古墳群の中心で、光了こうりよう寺蔵のてら古墳出土の金環その他の副葬品、中田古墳出土の男子半身像埴輪(東京国立博物館蔵)のようなみごとな埴輪があり、正応元年(一二八八)の板碑なども出ていて、古くから開けた村であった。


中田町
なかだちよう

面積:六二・二二平方キロ

県域北端にあり、北は岩手県西磐井にしいわい花泉はないずみ町、東は東和とうわ町、南は登米とよま町・米山よねやま町、西は南方みなみかた町・はさま町・石越いしこし町に接する。町域東端を北上川が南流し、西にはなつ川が南流して迫川に合流する。迫町と本吉もとよし郡本吉町を結ぶ国道三四六号(西郡街道)が南西から北東へ、本吉郡志津川しづがわ町と花泉町を結ぶ国道三四二号が南東から北西へ走り、その交点が十文字じゆうもんじである。町域の大部分は平坦地で、みごとな水田地帯となっている。かつて村域北部に五三六・五ヘクタールの、灌漑用に造成された広大な中田沼があったが、明治四〇年(一九〇七)からの郡役所直営干拓工事によりほとんどが水田となった。町名はこの中田沼に由来する。第二次世界大戦後西郡にしこおり街道に沿う畑地帯の水田化も行われ、大部分の耕地は水田化された。


中田町
なかたまち

[現在地名]長浜市朝日町あさひちよう

南の下田町から北の上田町へ続く南北通りの両側町瀬田せた村領年貢地。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数二四、男五五・女五四で、町代・横目が置かれ、油屋四・禅門二・大工二・かせや二・紺屋がいた。


中田町
なかたちよう

[現在地名]津和野町後田うしろだ

町の一筋西の南北道の両側に沿う町人町。北はえびす町、南は後田村の田に接する。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では新年貢屋敷とされ、寛永期(一六二四―四四)以降田畑から転換された地である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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