朝日日本歴史人物事典 「相良義滋」の解説
相良義滋
生年:延徳1(1489)
戦国時代の武将,相良家当主。長毎の子で長定の嗣子。初め長為,のち長唯,天文14(1545)年義滋と改名。肥後国(熊本県)球磨・八代・芦北3郡を支配。大永6(1526)年弟の観音寺瑞堅が,兄長祇から家督を奪った長定を追放するが支持を得られず,享禄3(1530)年長唯が家督を継承,内紛に終止符を打った。天文3(1534)年八代古麓に鷹ケ峰城を築いて居城とし,菊池・名和・阿蘇氏などと親交を深め大友氏に備えた。同14年2月には義滋法度を制定。八代徳淵の港を拠点に天草へ進出し,琉球とも交易を行った。天文8年市木丸を建造,同14年,幕府勘合船の警固を命じられるなど,不知火海(八代海)の制海権も掌握。内外に勢威を振るい相良氏の一時代を築く。<参考文献>『相良家文書』『八代日記』
(柳田快明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報