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足利義尚 あしかが よしひさ

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美術人名辞典の解説

足利義尚

室町幕府九代将軍。八代義政の長男、母は日野富子。のち義熙と改名。文明5年(1473)9歳で将軍となる。和歌を能くし、歌集『常徳院集』がある。従一位内大臣・贈太政大臣六角高頼討伐のため近江に出陣、延徳元年(1489)陣中で歿。25才。

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デジタル大辞泉の解説

あしかが‐よしひさ【足利義尚】

[1465~1489]室町幕府第9代将軍。在職1473~1489。義政の子。母は日野富子。文明5年(1473)将軍となる。叔父義視(よしみ)との継嗣争いが応仁の乱の一因となった。近江の六角高頼の討伐中に病没した。

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百科事典マイペディアの解説

足利義尚【あしかがよしひさ】

室町幕府9代将軍足利義政の子。叔父足利義視(よしみ)の家督相続後に誕生したため継嗣争いが起こり,これが応仁・文明の乱の発端となった。1473年母日野富子が後見となって将軍就任。
→関連項目足利義稙大館氏大館常興日記富樫政親

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利義尚 あしかが-よしひさ

1465-1489 室町幕府9代将軍。在職1474*-89。
寛正(かんしょう)6年11月23日生まれ。足利義政の長男。母は日野富子。8代将軍義政が後継を弟義視(よしみ)としたのち生まれたため,義視と家督争いがおこり,応仁(おうにん)の乱の一因となる。文明5年9歳で将軍となるが,政務は義政がとった。長享元年近江(おうみ)守護六角高頼(たかより)の征討にむかい,3年3月26日陣中で病死した。25歳。後名は義煕。法号は常徳院。家集に「常徳院殿集」など。
【格言など】手を折りてすぎこし代々(よよ)をかぞふればむなしき床の夢にぞありける(「義尚公薨逝記」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利義尚

没年:延徳1.3.26(1489.4.26)
生年:寛正6.11.23(1465.12.11)
室町幕府第9代将軍。義政の長子,母は日野富子。京都に生まれる。義政に男子なく寛正5(1464)年末弟義視を後継としたが,その翌年義尚が出生。富子は義尚の嗣立を企てて山名持豊(宗全)と結び,義視は細川勝元を頼った。これに斯波,畠山家の家督紛争が絡んで応仁の乱が勃発。義尚は文明5(1473)年12月左中将となり将軍に就任。政務は富子が後見したが,同9年の大乱終結後は政道の矯正に意欲を示し,政治顧問一条兼良は義尚のために帝王学の書として『樵談治要』『文明一統記』を献じた(1480)。折しも寺社本所の穀倉であった近江が守護六角高頼により押領され,荘園領主の愁訴を奇貨として,将軍親裁権の強化をもくろみ長享1(1487)年9月近江に親征,高頼を甲賀山中に追い詰めたが,親征による果実は将軍側近の奉行,奉公衆らが独占したため諸将や諸本所の反発を買い,自らも深酒と荒淫のため陣中に病死した。

(今谷明)

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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがよしひさ【足利義尚】

1465‐89(寛正6‐延徳1)
室町幕府9代将軍。号常徳院。義政の子。のち義熙(よしひろ)と改名。義政が弟義視を家督に指定した後,日野富子との間に出生し,彼の誕生が応仁・文明の乱の一因となった。73年(文明5)将軍に就任し,母富子が後見。乱後は将軍親裁権の強化をはかり,87年(長享1)みずから六角征伐の軍を指揮,占領地を奉行人・奉公衆等の近習に与えたが,深酒と荒淫のため鈎(まがり)の陣中に病死。【今谷 明】

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大辞林 第三版の解説

あしかがよしひさ【足利義尚】

1465~1489) 室町幕府九代将軍(在職1473~1489)。義政・日野富子の子。叔父義視よしみと将軍継嗣を争い、応仁の乱を誘発した。近江の六角高頼(1462~1520)討伐のために出陣中病死。和歌をよくした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利義尚
あしかがよしひさ

[生]寛正6(1465).11.23. 京都
[没]延徳1(1489).3.26. 近江,鈎
室町幕府9代将軍 (在職 1473~89) 。父は義政。母は日野富子。妻は日野勝光の娘。義尚の誕生以前に足利義政は弟の義視を後嗣と定めていたが,富子が子義尚の将軍襲職を望んで山名持豊に依頼したことが応仁の乱の一因となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利義尚
あしかがよしひさ
(1465―1489)

室町幕府第9代将軍。寛正(かんしょう)6年11月23日生まれ。義政(よしまさ)の嫡子。1488年(長享2)6月義煕(よしひろ)と改名。応仁(おうにん)の乱中に幼少のまま就位したが、その治世の前半は、生母日野富子、外戚(がいせき)日野勝光(かつみつ)、大御所足利義政らが実権を握り、傀儡(かいらい)的存在であった。1483年(文明15)義政が東山(ひがしやま)山荘に隠栖(いんせい)してようやく幕政を掌握、1487年(長享1)には寺社本所(ほんじょ)領回復を名目として六角(ろっかく)征伐を起こし、近江(おうみ)(滋賀県)鉤(まがり)に幕府を移した。しかしこの挙は、荘園(しょうえん)回復に名を借りた将軍親裁権強化策であったため、管領(かんれい)細川政元(まさもと)と対立、自身も深酒と荒淫(こういん)のため延徳(えんとく)元年3月26日、近江で陣没した。[今谷 明]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の足利義尚の言及

【応仁・文明の乱】より

…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】

[家督争い]
 乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…

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