真岡三町(読み)もおかさんちよう

日本歴史地名大系 「真岡三町」の解説

真岡三町
もおかさんちよう

[現在地名]真岡市台町だいまち田町たまち荒町あらまち

現在の真岡市街地にあった台町田町・荒町を一括して真岡三町とよんだ。近世中・末期に開発された新田熊倉くまくら分をも含む。天正五年(一五七七)頃、芳賀高継がのちの台町の岡上に芳賀はが城を築城し、以来芳賀氏の拠点として城を中心として人家が集まり城下町を形成し、真岡の地名もこの頃に定まったといわれる。城のある岡を含んでその南から西方一帯が台町、岡の東方北部が荒町、南部が田町である。

慶長二年(一五九七)の芳賀氏滅亡後、蒲生氏の宇都宮城主時代に、真岡城代町野左近により、新たな町立てが進められ、同四年城の東側の田地を開き、北から南に荒町の上町下町が成立した。同七年正月一八日の地子免許状(栃木県庁採集文書)によれば、台町・田町・荒町に対し、「公儀御伝馬」が義務づけられ、地子が免除されている。これは慶長五年の関ヶ原の戦に先立ち、徳川家康が関東に出陣した際の、三町の人馬動員協力への褒賞とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報