石川名足(読み)いしかわのなたり

朝日日本歴史人物事典 「石川名足」の解説

石川名足

没年延暦7.6.10(788.7.17)
生年神亀5(728)
奈良時代の上級官僚。年足の子。天平宝字5(761)年1月に正六位上から従五位下,下野守となり,以後備前守,陸奥鎮守将軍,陸奥守など地方官を歴任。この間,備前国藤野郡(岡山県和気郡)の民力の充実のため同郡の拡張を行い,伊治城(宮城県築館町)築城の功をあげた。宝亀2(771)年からは主として中央官僚として昇進し,『続日本紀』の編纂にも携わった。死去のときは中納言従三位兼兵部卿皇后宮左京大夫大和守であった。記憶力がよく,利口で決裁に滞ることがなかったが,度量が狭く,気に入らないと相手を罵ったため,事務に携わる者は名足を避けたと伝える。

(岩本次郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「石川名足」の解説

石川名足 いしかわの-なたり

728-788 奈良時代の公卿(くぎょう)。
神亀(じんき)5年生まれ。石川年足(としたり)の子。下野守(しもつけのかみ)などを歴任。神護景雲(じんごけいうん)元年陸奥(むつ)鎮守副将軍となり,栗原郡(宮城県)に伊治(いじ)城を築造。のち従三位,中納言となる。「続日本紀」の編修にかかわった。延暦(えんりゃく)7年6月10日死去。61歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の石川名足の言及

【続日本紀】より

…まず(1)文武~孝謙紀(文武1年1月~天平宝字2年7月)が淳仁朝に30巻として撰修されたが,その発議は藤原仲麻呂によるらしい。光仁朝に石川名足が淡海三船,当麻永嗣とともにこれに修正を加えて奏上したが,29巻のみで,問題の多い巻三十は亡失と称して削除された。名足はまたほぼ同時に上毛野大川と(2)淳仁~光仁紀(天平宝字2年8月~宝亀8年12月)を20巻に撰修した。…

※「石川名足」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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