改訂新版 世界大百科事典 の解説
アブド・アッラフマーン[1世]
`Abd al-Rahmān Ⅰ
生没年:731-788
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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731~788(在位756~788)
後ウマイヤ朝の初代君主。シリアのウマイヤ朝の一族で,アッバース朝に追われてアンダルスに逃れ,その支配者となった。即位後,あいつぐ国内反乱や,それに干渉するアッバース朝,フランク王国の介入を退け,王朝の基礎を築いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…750年マルワーン2世が逃亡先の上エジプトで殺され,ウマイヤ朝は滅んだ。一族のアブド・アッラフマーン1世は,イベリア半島に渡り,756年コルドバで同朝を再興した(後ウマイヤ朝)。 ムハンマドを頂点とする部族連合的国家が空間的に拡大し,カリフを頂点とする地域連合体に転化したのがウマイヤ朝国家である。…
…756‐1031年。ウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が,アッバース朝の追手を逃れて,756年総督ユースフを破り,コルドバでアミールを宣して以来,1031年の滅亡まで,24代(19人)の君主のうち16人までがウマイヤ家出身者であったので,日本では後ウマイヤ朝と通称される。アブド・アッラフマーン1世は,カリフではなくてアミールと自称したが,それは彼の王朝がまだアッバース朝と比肩できず,またイスラム国家は一つで,しかも1人のカリフによって治められなければならないという伝統を重んじたからである。…
…711年にイベリアに侵攻したイスラム教徒は,軍事征服が一段落すると,アル・アンダルスと命名したこの新しい領国の首都にコルドバを選んだ。そして756年にはダマスクスを追われたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世が亡命政権を立てたことから,西方イスラム世界の首都となった。 後ウマイヤ朝期(756‐1031)はアル・アンダルスの最盛期であり,コルドバは西ヨーロッパ随一の規模に発展した。…
…スペイン南部,コルドバにあるモスクで,スペインのイスラム建築の傑作。アブド・アッラフマーン1世により758年に着工,3年後にヒシャーム1世が完成させた。〈オレンジの木の中庭〉(73m×36m)とその南側にあるアラブ・タイプの多柱式礼拝堂(柱間数は間口が11間,奥行きが12間で,規模は73m×38m)からなる長方形プランの石造建築で,砦のように厚く高い壁に囲まれ,サーマッラーの大モスクに次ぐ雄大な規模をもつ。…
※「アブドアッラフマーン1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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