アブドアッラフマーン(その他表記)‘Abd al-Raḥmān

デジタル大辞泉 「アブドアッラフマーン」の意味・読み・例文・類語

アブド‐アッラフマーン(‘Abd al-Raḥmān)

(1世)[731~788]後ウマイヤ朝始祖。在位756~788。スペインコルドバを中心にウマイヤ朝再建、フランク王国カール大帝の遠征軍を破って王国の基礎を固めた。
(3世)[889~961]後ウマイヤ朝第8代の君主。在位912~961。国内の諸勢力を制圧し、929年、カリフを称した。産業を振興し、学芸奨励王朝最盛期を現出し、コルドバは西欧随一の都となって繁栄

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旺文社世界史事典 三訂版 「アブドアッラフマーン」の解説

アブド=アッラフマーン(3世)
‘Abd al-RaḥmānⅢ

891〜961
後 (こう) ウマイヤ朝の全盛期を現出させた第8代カリフ(在位912〜961)
イスラーム貴族の反抗を抑圧し,スペインのキリスト教勢力を破って北方支配を広げ,ファーティマ朝にも対抗して北アフリカ領土拡大,後ウマイヤ朝の最盛期をつくった。なお,カリフを称したファーティマ朝に対抗して,929年,彼のときから後ウマイヤ朝の君主は,それまでのアミール総督)に代えて,カリフを称するようになり,後ウマイヤ朝は西カリフ国とも呼ばれるようになった。

アブド=アッラフマーン(1世)
‘Abd al-RaḥmānⅠ

731〜788
後 (こう) ウマイヤ朝の創始者(在位756〜788)
ウマイヤ朝がアブー=アルアッバースに倒されると,彼は北アフリカからスペインに逃れ,コルドバでウマイヤ朝を再建し,フランク国王カール1世の侵攻にも抵抗した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアブドアッラフマーンの言及

【トゥール・ポアティエの戦】より

…732年にフランク王国の宮宰カール・マルテルが,フランス西部,トゥールToursとポアティエPoitiersの間において,イスラム教徒の軍を撃退した戦闘。729年スペインの地方総督アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmān al‐Ghāfiqī(?‐732)に率いられたイスラム軍は,ロンスボー(ロンセスバリェス)の峠を通ってピレネー山脈を越え,ガスコーニュ地方を襲い,さらにボルドーを占領したうえ,ガロンヌ川右岸でアキテーヌ公ウードの軍を粉砕した。この余勢を駆ってアブド・アッラフマーンは,キリスト教世界最大の聖地の一つである,トゥールのサン・マルタン修道院を目指して北上した。…

【アラウィー朝】より

…彼の死後,再び国内は混乱し,分裂状態になった。フランスのアルジェリア占領(1830)に対して,アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmān(在位1822‐59)はアルジェリアを支援してフランスと戦ったが敗れ,次のスルタン,シディ・ムハンマドの治世(1859‐73)にはモロッコ北部をスペインに占領された。このころから,西欧列強の進出と利権をめぐる争いが強まり,ついに1912年のフェス条約でフランスの保護領となった。…

【アブド・アルアジーズ・ブン・サウード】より

…イブン・サウードIbn Sa‘ūdともよばれる。1889年ラシード家に敗れた父アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmānと共にナジュドを追われた後,クウェートに亡命。1902年少数の手兵でリヤード奪還に成功,ワッハーブ派のサウード家の王国を再興した。…

※「アブドアッラフマーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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