石神井城跡
しやくじいじようあと
[現在地名]練馬区石神井台一丁目
石神井川と三宝寺池の間、東西に延びた台地上にある。亀頂城ともいう。文明九年(一四七七)一月、石神井豊島勘解由左衛門・平右衛門兄弟が長尾景春方として蜂起した際、練馬城とともに取立てた城郭。江戸と武蔵河越(現埼玉県川越市)の通路を遮断する意味あいがあったとされる(「鎌倉大草紙」・一一月二八日「太田道灌書状写」松平文庫所蔵文書)。同年四月一三日、勘解由左衛門らは江戸城を出た太田道灌と江古田原・沼袋(現中野区)で戦い平右衛門以下数十人が討取られた。翌日石神井城まで攻め込まれ、同一八日に降伏した。勘解由左衛門は道灌と対面し城郭を破却することを約しながら、いまだ敵対する様子だったので再度外城から攻められ、没落した。一八日のこととも(鎌倉大草紙)、二八日のことともいう(前掲太田道灌書状写)。太田道灌書状写に「対城」とあるため、江戸城に対抗する臨時の軍事拠点だったとする見解もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
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