砂子堰
いさごぜき
広瀬川から取水し、梁川町・保原町を灌漑する用水。文化元年(一八〇四)の下保原村明細帳(福島県史)によれば、慶長三年(一五九八)関波村地内に取水口を設け、開削普請が行われた。用水は山裾を西流し、流程三里余で下保原村(現保原町)に至り、水下村は一六村であった。一説には慶長五年の開削とされ、当初伊達東根の大肝煎(四郡役)である渡部新左衛門と堀江与五右衛門が水守を勤め、延長八千九一六間であった。北流する水を南流させたので、伊達の逆水と称されたといい、流域の新田開発は大いに進んだ(福島県史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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