日本歴史地名大系 「粟野村」の解説
粟野村
あわのむら
慶安郷帳には「西市野村」と誤記され、田三九二石余・畑一千二七七石余・山三一二石余・夫免一六八石余・延九石余、皆川藩領とある。輪王寺本には粟野村とみえる。元禄郷帳の高二千六〇三石余、旗本本間・高山・小坂・打越・水野・加藤・中条・伊沢の八給で、ほか
天保七年(一八三六)幕府勘定奉行により三村を併せた粟野村全域の検地が行われたが、入粟野・中粟野両村が反対運動を行っている。元来一村であったため、耕地が相互に入組み、入会の問題や境界・材木をめぐる対立も多く、検地が開始されたあとも、検地役人に対して中粟野村の百姓六〇人ほどが役人宿舎に直訴を行ったり、入粟野村の者が口粟野村の町並北側の
粟野村
あわのむら
豊浦郡の最北部にあり、村の中央を粟野川が流れ、川沿いに
「防長古文書誌」には元徳二年(一三三〇)に長門探題北条時直が、長府
「地下上申」は村名のいわれを「往古は深山にて松雑木等多く有之たる由、夫故諸国より材木買得に来り採用仕、日を重ね申に付、浴谷等を開き米穀はんたんの時節にてか粟・ひへ等を第一に作仕、おのづから此所に有付、妻子等呼寄せ自然と居宅を構へ申に付、村なりに成立申候故、猶以郷中山の浴谷も粟計夥敷作り付け、左様之いんゑん広野等も有之故、粟野村と申ならはしたるにて可有御座と地下人申伝候」と記す。また寛文三年(一六六三)の大津郡伊上村との境目争いの記録には、「長府領青野村」ともある。
小字には
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
梁川村の西に位置し、南は
粟野村
あわのむら
- 千葉県:鎌ヶ谷市
- 粟野村
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
粟野村
あわのむら
丹生山地を流れる
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報