二井田村
にいだむら
[現在地名]大館市二井田
大館盆地南部、北流する犀川と綴子(現北秋田郡鷹巣町)、扇田(現北秋田郡比内町)を結ぶ旧脇街道の交わるところに位置する。天文年間(一五三二―五五)の浅利則頼侍分限帳(佐藤文書)に「御家老 新田村居主 川口安芸」とみえる。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には「新田村二井田に改 先には贄田村」とあり、しばしば異記された模様。
「吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月三日条にみえる平泉藤原泰衡の「相恃数代郎従」河田次郎の本拠地贄柵は、当村の現贄の里に比定される。現存する八幡社は藤原泰衡を祀る。建武五年(一三三八)五月一一日の浅利清連注進状(遠野南部文書)にも「比内郡凶徒新田彦次郎政持」とあって、豪族が成長していたことを示す。
二井田村
にいだむら
[現在地名]能代市字下悪戸・中島・仁井田白山・中悪戸・新山前・寺向
東は機織村、北は米代川、南は大内田村の田地が広がる。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「三百拾壱石四斗四升 にい田村 川口村」とある。また文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)には一八二石余の「新田村」とあり、鉄鉋衆が三人記される。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)では鉄炮衆二人と鑓衆二人が記される。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では大内田村の内となっているが、延宝五年(一六七七)に独立した(六郡郡邑記)。
二井田村
にいだむら
[現在地名]秋田市仁井田福島一丁目・同二丁目・同二ッ屋一丁目・同二丁目・同緑町・同潟中町・同蕗見町・同栄町・同小中島・同新田一―三丁目・大住一―四丁目・仁井田
雄物川旧河道(古川)の自然堤防上にあり、羽州街道が貫通し、北は牛島・久保田城下に続く。村の西方を雄物川が北流するが、旧雄物川河道に古川、北に大野潟・二ッ屋潟の河跡湖を残した。古川は細流として跡をとどめるが、大野潟・二ッ屋潟は開田が進み、さらに宅地化され潟は消滅した。東潟敷・西潟敷の字名が大野潟跡に残る。
開拓は藩命を受けた梅津憲忠により始まる。
二井田村
にいだむら
[現在地名]保原町二井田
泉沢村の東、平坦地に位置する。水田と畑地が混在し、微高地上に集落が散在する。新井田などとも記された。永正一六年(一五一九)三月二四日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば泉福寺より買得した「伊達東根新田之郷」のうち梨木町一宇(年貢二貫文)などが萱場鶴増に安堵されており、梨木町は現在の字梨子木にあたるともいわれる。天文七年(一五三八)の段銭古帳には、伊達東根のうちとして「にいた」とみえ、段銭は四貫九六〇文。
二井田村
にいだむら
皆瀬川流域の沖積平野に発達し、湯沢より平鹿郡沼館(現雄物川町)に至る街道沿いにある。北は角間村、東南は岩崎村、西は八幡村に接する。
享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に、村名について次のように記される。
<資料は省略されています>
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には仁井田新田四一五石とあるが、元禄一五年(一七〇二)の出羽国秋田領変地其外相改候目録(県立秋田図書館蔵)に「古御絵図ニ高付郷形御座候今度相改申所ニ村居無御座候ニ付、新御絵図ニ相除申候」とあり、公的に無高扱いを受けたこともある。
二井田村
にいだむら
[現在地名]十文字町仁井田
羽州街道の東側にあり、増田村(現増田町)から浅舞村(現平鹿町)に通じる小街道が村の北方を貫通し、南は皆瀬川が西流して雄勝郡岩崎村(現湯沢市)と接する。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に増田村の内とある。享保一四年(一七二九)平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、享保元年には新田村と称したが、同一四年に二井田村と改め、付記に「元禄二井田村但誤而新田出」とあるから、元禄年間(一六八八―一七〇四)には一村となっていた。享保一五年の「六郡郡邑記」は二井田村を改めて新田村とし、家数四九軒とある。文化年間(一八〇四―一八)の「秋田風土記」に「高三百二十四石二斗九合、元五百十六石五升一合ノ地、免五つ五分、田水岩崎川、家居四十九」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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