砂越村(読み)さごしむら

日本歴史地名大系 「砂越村」の解説

砂越村
さごしむら

[現在地名]平田町砂越

飛鳥あすか村の西にあり、南は最上川を境に平岡ひらおか(現東田川郡余目町)。西端に砂越城跡があり、戦国時代には砂越城下として、江戸時代には在郷町として発達した。清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)時宗過去帳の延文二年(一三五七)九月八日没の忍阿弥陀仏の裏書に「羽州沙越」とあり、南北朝期当地にも時宗が伝播していたとみられる。

元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二七六石余、寛永元年庄内高辻帳では高五八一石余。当村は元和八年以来庄内藩領であったが、寛永九年(一六三二)村高のうち一部は加藤忠広領となる(残りは庄内藩領として幕末に至る)。承応二年(一六五三)加藤氏領は幕府領となり、元禄二年(一六八九)まで庄内藩預地であった。その後幕末まで幕府領で大山代官所の支配下にあった(「検地帳」砂越区有文書など)。天保五年(一八三四)名寄帳(同文書)では村高七三七石余、うち庄内藩領七一六石余・幕府領二〇石余。正保三年(一六四六)の庄内三郡左沢浮役帳に当村の大川御役として、「なかし」五網分銀九五匁余とある。貞享四年(一六八七)草刈地の鷹尾たかお山山札四〇枚を有し、米二俵を納めた(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数八二・人数四一九(「村数家数人高控帳」斎藤文書)


砂越村
すなこえむら

[現在地名]会津坂下町沼越ぬまこし

北を阿賀川が西流し、西は曲沼まがぬま村、東は立川たちかわ村。慶長一六年(一六一一)以前は越後街道に沿っていた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一六八石余。青津組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一八八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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