越後街道(読み)えちごかいどう

日本歴史地名大系 「越後街道」の解説

越後街道
えちごかいどう

若松城下から津川つがわ(現新潟県津川町)経由越後国に入り、新発田城下を経て寺泊てらどまり(現新潟県寺泊町)から佐渡へ渡る街道が近世の越後街道である。現在の県域の若松―宝川ほうかわ(現西会津町)間の宿場とその間の距離は次のとおりである。若松―一里二三町―高久たかく(現会津若松市)―一里一六町―坂下ばんげ―二一町―塔寺とうでら―二九町―船渡ふなと片門かたかど(以上現会津坂下町)―三里五町―野沢のざわ―一里二九町―上野尻かみのじり―八町―下野尻―二八町―白坂しらさか(以上現西会津町)―一五町―宝川、船渡と片門とは只見ただみ川を挟んだ合宿である。慶長一九年(一六一四)の会津大地震までの越後街道は若松から高久経由で青木あおき(現会津坂下町)にかかり、勝負沢しようぶざわ峠を越えて西羽賀にしはが塩坪しおつぼ(現高郷村)尾登おのぼり小島おじま(現西会津町)を経て野沢に出た。青木村の慶長記(生江家文書)では、若松から米沢街道森台もりだい(現湯川村)を経て堂畑どうばたけ(現同上)立川たちかわ(現会津坂下町)・青木と並ぶのが越後街道とするが、慶長九年一里塚を築いた越後街道は、のちに記すように元一里塚が現会津若松市神指こうざし北四合の榎壇きたしごうのえのきだんにあるから、高久経由であろう。慶長の大地震で耶麻郡山崎やまざき(現喜多方市)地内で山崩れが起こり、阿賀川を堰止め「川北ニ而五ケ村川南ニ而七ケ村湖水ニ成、方々江逃去思ヒ思ヒニ居住」した際(慶長記)、青木村も水没した。これが山崎新湖の出現である。


越後街道
えちごかいどう

米沢城下から越後国下関しもせき宿(現新潟県岩船郡関川村)を経て新発田しばた城下(現新潟県新発田市)へ至る街道。伊達稙宗が大永元年(一五二一)に開削したと伝える。越後への本街道で、人馬・文物の往来の多い米沢藩の主要街道。越後国側からは米沢街道と通称された。ほかに米沢城下館山たてやま町を経て城外に出て小樽こたる橋を渡り、田沢たざわから玉庭たまにわ(現東置賜郡川西町)数馬かずま村・上原うわばら村・下屋地しもやち(現西置賜郡飯豊町)大石沢おおいしざわ村・叶水かのみず(現西置賜郡小国町)を通り市野々いちのの(現同上)で当街道に合流する脇道があった。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録によれば遠藤上野守は郷内の「いちのゝ在家」などを加恩され、「越後のつう路、山中百廿里のあひた惣成敗、前々のことくたるへし」と、長井から越後に通じていた越後街道山中の成敗権を安堵されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「越後街道」の意味・わかりやすい解説

越後街道
えちごかいどう

福島県本宮市より,猪苗代湖北岸を回り,会津若松市を経て鳥井峠を越え,新潟県新発田市にいたる主要街道。中通り会津,越後 (→越後国 ) を結んだ。明治になって三島通庸によって整備された。現在の一般県道 (本宮市-郡山市熱海) と国道 49号線にあたる。

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