漆芸技法の一つで,貝,牙角(がかく),陶片,板金などを蒔絵(まきえ)と併用して文様を表したもの。江戸中期の漆芸家小川破笠(1663-1747)が得意としたところから名づけられた。破笠は名は観,通称平助。字は尚行,また卯観子,笠翁,夢中庵などと号す。伊勢に生まれ,のち江戸に出て松尾芭蕉に俳諧を学び,また絵を英一蝶や土佐派に学んだという。さらに陶芸,漆芸にも手を染めたが,特に漆芸においてその名が高い。若年のころ弊衣をまとい竹笠をかぶって木曾山中をさまよい,〈乞食にもかくはなられぬ案山子かな〉と吟じたところから,破笠と号したという。晩年津軽家に仕えた。門人の望月半山が2代目破笠を称し,また半山の門人酒井子山(巨山)が3代目を継いだ。その大胆な材料の使用から,破笠を琳派の中に含める説もあるが,これに類似の技法は中国にあって,明代以来百宝嵌と称されて盛行しており,むしろ彼の中国趣味によると考えられる。代表作に〈柏に木兎(みみずく)図料紙箱〉(津軽家),〈貝賦蒔絵料紙・硯箱〉(サントリー美術館)がある。
執筆者:鈴木 規夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…これが一揆で,指導者は厳刑に処せられたが,訴願の趣旨は受け入れられる場合が少なくなく大きな成果をあげた。【深谷 克己】 江戸時代では,下総国印旛郡公津台方村の名主惣五郎が佐倉藩主堀田氏による収奪の実態を将軍に直訴し,妻子とともに処刑された事例や,上野国利根郡月夜野村の農民茂左衛門が沼田藩主真田氏の暴政を老中ならびに将軍に訴え出て,真田氏は改易となり,茂左衛門は捕らえられて死刑に処せられた磔茂左衛門の例などが有名である。明治時代には,1890年代から議会で足尾鉱毒問題を追及してきた田中正造が,政府の無責任な態度に絶望し,代議士を辞任して1901年12月天皇に直訴した事件がとくに注目される。…
※「破笠細工」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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