彫漆(ちょうしつ)技法の一種。器胎(きたい)の上に朱漆(しゅうるし)を何層にも塗り重ね、その上に文様を浮彫りしたもの。黒漆を用いる場合は堆黒(ついこく)、ほかに堆黄(ついこう)、堆緑などがある。鎌倉時代に宋(そう)から舶載されたが、中国での名称は剔紅(てきこう)、剔黒、剔黄、剔緑という。また、塗り重ねた各色の漆の色を彫り表したものを彫彩漆(ちょうしつうるし)、花を朱、葉を緑で表したものは紅花緑葉(こうかろくよう)ともよばれる。文献上では唐代が起源とされ、また明(みん)代に著された『清秘閣』には、剔紅の多くは金銀を素地(きじ)とし、文様が人物楼閣花草であったことが記されている。制作の盛行は宋代以降であるが、元(げん)代末(14世紀中ごろ)の作と思われる江蘇(こうそ)省青浦(せいほ)県元墓出土の踏雪尋梅図剔紅円盒(えんごう)が制作年代のほぼ明らかな初期の作例で、蓋(ふた)表に、一老人が童子を従え、雪を踏んで梅を訪ねる図をかなり写生的に表している。この時代の堆朱器はわが国にもかなり遺例が多く、代表的なものにはいずれも重要文化財の紫萼(しがく)文香盆(滋賀県・聖衆来迎(しょうじゅらいごう)寺)、椿尾長鳥(つばきおながどり)文香盆(興臨院)、牡丹孔雀文香盆(京都・大仙院)などがある。これらの図様はきわめて写生的で、肉どりによる浮彫りにも写実的配慮がうかがわれる。またこの時期の優れた作家に浙江(せっこう)省嘉興(かこう)府西塘(さいとう)楊匯(ようわい)出身の張成と楊茂(ようも)がおり、15世紀初頭には張成の子の徳剛が官営工房の果園廠(しょう)で剔紅に活躍した。その後は文様の構成が一段と複雑になり、細部にわたって意が用いられ、変わった器形や着想のもとで鑑賞性に富む装飾的なものが出現、17世紀以降の清(しん)代にはさらに鑑賞性を目ざす造形へと進んだ。
わが国では鎌倉・室町期に盛んに輸入され唐物(からもの)として珍重されたが、初めて模作したのは南北朝時代の延文(えんぶん)年間(1356~61)に堆朱楊成(ようぜい)の初代長充(ちょうじゅう)であるとする説、室町中期の文明(ぶんめい)年間(1469~87)に京都の堆朱工門入(もんにゅう)であるとする説がある。なお、漆を塗り重ねる手間を省くため素地に図柄を加工した上に朱漆を塗る模造法として、新潟の村上堆朱や仙台市の東華(とうか)堆朱などがある。
[郷家忠臣]
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彫漆の代表的技法の一つ。一般にヒノキ材などの素地(きじ)に朱漆を数十回から100回以上塗り重ねて適当な厚さとし,その表面に模様や図柄を刀で浮彫りしたもの。彫漆は中国の唐代におこったことが記録にあらわれるが,宋代以降の遺品が現存し,とくに明代には盛行をみた。堆朱を中国では剔紅(てきこう)ともいい,日本には鎌倉時代以降盛んに舶載された。国産品が製作されたのは室町中期ころからで,堆朱楊成家が代々その主要作家である。また,堆朱は製作費が高く,手間がかかるため,木製素地に彫刻し,朱漆を塗る模造の木彫堆朱が行われている。新潟県の村上堆朱や,セッコウや木粉などを朱漆で固めた素地の面上に加圧印刻して図柄や文様をあらわし,朱漆を塗る仙台市の東華堆朱などである。
→彫漆
執筆者:郷家 忠臣
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…技法は,素地の表面に漆を数十~100回あまり塗り重ねて適当な厚さにした漆層に刀で文様を浮彫状に表したもの。漆の色や文様の違いによって,堆朱(ついしゆ),堆黒,堆黄,屈輪(ぐり),彫彩漆(紅花緑葉)などの名称で呼ばれる。これらは元来中国で盛んに行われたもので,中国では堆朱を剔紅(てきこう),堆黒を剔黒,堆黄を剔黄,紅花緑葉を剔彩ともいう。…
※「堆朱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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