日本大百科全書(ニッポニカ)「琳派」の解説
琳派
りんぱ
宗達光琳派(そうたつこうりんは)ともいう。江戸時代を通じて栄えた装飾画の流派。江戸初期の俵屋(たわらや)宗達が創始、中期の尾形(おがた)光琳が大成したもので、彼らと関係の深い本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、尾形乾山(けんざん)らの工芸を含めて扱う場合もある。狩野(かのう)派・土佐派のような幕府や宮廷の御用絵師ではなく、また世襲の制度をもたず、主として私淑・影響関係によって画系が成立している。日本の美術の伝統に存する装飾美・意匠美を近世の新しい感覚で追求し、その芸術は公卿(くぎょう)、大名、町衆(町人)の諸層に受け入れられて発展を遂げ、また近代の日本画・工芸意匠の世界にも少なからぬ影響を与えている。
宗達は京都の町絵師で、初めは書の料紙の下絵や扇面画(せんめんが)などのデザイン的な画事をもっぱらとし、絵画性の強い画期的な意匠をつくりあげる。中年以後は大画面制作を手がけて優れた屏風(びょうぶ)絵を数多く残す一方、水墨画にも柔らかい墨調を生かして独自の日本的な墨画の世界を開拓した。中世の絵巻を模写して大和(やまと)絵の古典に学び、また題材の摂取に努める。宗達の好んで用いた物語絵と草花を中心とした花鳥画は、以後この派の主要な画題となり、ほとんどの画家が積極的に取り上げている。また彼の創案した「たらし込み」の手法も、同派の絵画を特徴づけるもっとも重要な技法として後継の諸作家によって継承された。大胆な構図と斬新(ざんしん)な意匠のなかにも、王朝以来の和様の美しさを尊重する伝統精神が貫かれ、その芸術は当時の公卿や上層の町衆たちに迎えられた。
宗達と書画の合作を多数残している光悦は、親しい関係にあったとみられ、互いに造形上の影響を及ぼし合い成長したと考えられる。彼は能書家として知られる一方、陶芸・漆芸の方面でも活躍し、ことに光悦蒔絵(まきえ)の大胆・明快なデザインは、後の光琳にも大きな影響を与えている。宗達の後継者には俵屋宗雪(そうせつ)がいるが、彼は後年加賀(石川県)に移住したとみられ、以後この地方に「伊年」の印を用いた亜流の草花絵が流行する。
江戸中期ごろ京都の呉服商の家に生まれた光琳は、本阿弥家の血を引くこともあってか、優れた造形感覚に恵まれ、絵画、デザインの両面に活躍する。ことに絵画は宗達に傾倒して学ぶところ多いが、その斬新な装飾性をさらに抽出、発展させて、より新しい造形様式を展開させる。本格的な画家としての出発は遅いが、没するまでの短い期間に多くの傑作を描き残している。また漆器、染織、陶器などの工芸品にも意匠を施し、その洗練されたデザインは世に「光琳模様」「光琳意匠」と称して愛好された。華美を好む元禄(げんろく)(1688~1704)の世相を背景に、鋭い美意識をもって絵画性と意匠性を統合して高度な装飾芸術をつくりあげた業績は大きい。光琳の弟乾山は陶芸家として知られるが、作陶技術よりもむしろ華やかな色絵付に本領があり、また晩年は和歌を題材とした絵画作品を多く残している。光琳以後、その絵画の追随者は多く、渡辺始興(しこう)、深江蘆舟(ふかえろしゅう)、立林何(たてばやしかげい)、中村芳中(ほうちゅう)らが輩出、始興以外はおおかた江戸を中心に活躍し、琳派後期の舞台は東に移行する。文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)に出た酒井抱一(ほういつ)は、光琳に深く心酔してその芸術の再興を志すが、むしろ彼の得意とした俳諧(はいかい)の世界にも通じる粋(すい)で、風雅な装飾画を残している。その門人の鈴木其一(きいつ)はしだいに師風を離れ、対象の明晰(めいせき)な形を執拗(しつよう)に追求する特異な作画をもって、琳派のなかでも異色の存在をなしている。このほか抱一の門流には鈴木蠣潭(れいたん)、酒井鶯蒲(おうほ)、池田孤邨(こそん)らの名が知られる。
[村重 寧]
『山根有三編『原色日本の美術14 宗達と光琳』(1969・小学館)』▽『東京国立博物館編『琳派』(1973・便利堂)』▽『山川武編『日本美術全集21 琳派――光悦・宗達・光琳』(1979・学習研究社)』▽『村重寧編著『アート・ジャパネスク14 琳派の意匠』(1982・講談社)』