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陶芸 トウゲイ

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デジタル大辞泉の解説

とう‐げい〔タウ‐〕【陶芸】

陶磁器を製作する技芸・工芸。

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

陶芸
とうげい

陶器と磁器を中心とする、いわゆる「焼物」の技術史的、美術史的な展開についての呼称。
 陶器と磁器の分類については、各国で慣習化された概念が通用していて、一定した基準はないが、素地(きじ)(胎土)のガラス化が著しく進み、透光性があり、たたくと金属性の音を発し、吸水性のほとんどないものを磁器とし、その純化が進んでいない場合を陶器とよぶのが一般的で、両者とも施釉(せゆう)を原則としているが、厳密な識別法はないといってよい。また、施釉していない土器と、釉(うわぐすり)の有無には拘泥しない(せっき)がある。土器と違って器はかならず窯の中で焼きしめてあり、素地は不透光性で、純白磁ではない。西洋では素地に不純物を多く含む準磁器を器に含めるのが一般的傾向であるのに対し、東洋ではこの種のものは磁器の範囲に含めるなど、これもいまのところ意見の統一はみていない。わが国では一般に陶磁器のことを、中部地方以東では瀬戸物、関西以西では唐津(からつ)と俗称することが多い。[矢部良明]

東洋の陶芸


 世界の陶芸史形成において比類のない技術革新を推し進め、表現内容の豊かな作陶を展開した東アジア文化圏のリーダーは中国であり、西は西アジア諸国であった。西アジアの陶芸も多様な技法や作風を編み出してきたが、表現の多彩さと美的な深さにおいて卓越していたのは中国陶磁である。[矢部良明]
中国
中国陶磁史は、他の諸国と同じく土器から出発する。土器は、その民族や種族が旧石器文化の時代を終えて新石器時代に入ったことを明示するもっとも重要な指標の一つにあげられているが、最近の中国の考古学者は、中国では紀元前6000年ころには土器を焼いて新石器時代の曙(あけぼの)を迎えたと報告している。1976年に発掘された河南省新鄭(しんてい)県裴李岡(はいりこう)遺跡の出土品は、窯(かま)は用いずに野天で焼造したものと推定される赤焼きの土器(中国では紅陶(こうとう)とよぶ)のみであるが、これをその先蹤(せんしょう)として、同種のものは陝西(せんせい)省華県老官台遺跡からも1958年に出土しており、また陝西省宝鶏市北首嶺(ほくしゅれい)遺跡の最下層からは紅陶とともに灰陶(かいとう)も出土し、これは前4500年ころの遺跡と判断された。灰陶は紅陶と違って、還元炎焼成(空気を遮断して焼成すること)によって初めて素地(きじ)肌がねずみ色を帯びるわけで、そのためには窯が築かれて、窯中で焼成されなければならない。つまり、すでに前4500年ころ、窯という製陶用の特殊な構築物が考案されていたわけで、世界に先駆けて製陶のリーダーとなるべき資質をもっていたことがわかる。その後、前4000年ころになると、やはり陝西省や河南省の地で、鉄やマンガンを含む鉱石をおもな顔料(がんりょう)に使って、器面に彩色文様を描くいわゆる彩陶(さいとう)(日本では彩文土器とよぶ)が考案され、この彩陶は甘粛(かんしゅく)省や青海省にも波及している。表現効果が華やかな彩色土器の出現は、漢民族がまことに画期的な美的表現力をもっていたことをよく表している。
 中国における新石器時代の後半期ともいうべき前2400年ころになると、山東省や江蘇(こうそ)省において黒陶が焼かれ始める。黒色の化粧土を全面に施して強力な還元炎で焼いた黒陶は、成形に「ろくろ」が用いられており、ごく薄い素地で調和のみごとな造形を実現した。それと同時に、選良されたカオリン質の白色粘土を用い、還元炎で焼成した白陶が黒陶とともに出現する。この時代は、出土する主要遺跡の名から大(だいもんこう)文化時代とよばれており、この文化がやがて竜山文化に受け継がれ、歴史時代の開幕へと連なる。
 新石器時代に紅陶、灰陶、彩陶、黒陶、白陶を創始した中国民族は、殷(いん)時代中期の鄭州期(前15~前14世紀)には新しい技術革新により、灰を人為的に釉(うわぐすり)の材料にしてカオリン質を多く含む素地に施し、窯中で高火度(1250℃以上)で焼成する灰釉(かいゆう)陶を創出している。まさに青銅の鋳造技術の発明と時を同じくして施釉陶の技術が胚胎(はいたい)したのであるが、この灰釉陶は江南・華北両地方から出土していて、発明地がどこなのかは判然としていない。
 殷時代に、焼物よりもはるかに機能性に富む青銅器が出現して以来、陶磁器は生産量を増やしながらも、その造形意欲は低迷して、殷・西周・春秋時代へかけて、すなわち前4世紀ころまでは、とくにみるべき成果は少ないが、続く戦国時代(前5~前3世紀)になって新しい釉法の鉛(なまり)釉が開発された。鉛を溶媒剤に使って長石を低火度(900℃内外)で溶かし、銅で緑、鉄で褐色を呈色させるもので、その釉色からそれぞれ緑釉、褐釉とよばれている。すでに西周時代(前12~前8世紀)に創始された鉛ガラスを釉化したものと考えられるこの鉛釉は、河南省洛陽(らくよう)金村(きんそん)の戦国時代墓から出土したとされる緑釉蟠文壺(ばんちもんつぼ)(アメリカ、ネルソン・ギャラリー)がその初例であるが、これ以外には戦国時代墓からの発掘事例はみられない。
 漢時代(前202~後220)になると、緑釉・褐釉陶は副葬陶器として大流行し、ほかに加彩(単なる絵の具を塗る技法)も登場して、器皿のほかに人物、楼閣、動物、家具などのミニチュアが多彩に彩られ、これにより焼物は空前の華麗な表現をもつようになった。
 後漢(ごかん)が滅びると鉛釉陶はぱったりとつくられなくなったが、かわって三国時代(220~280)の呉(ご)の国では、殷時代以来守られてきた灰釉技術が一挙に成熟して、青磁を生む地盤を形成した。そして西晋(せいしん)時代(265~316)には、浙江(せっこう)省を中心とするいわゆる越(えつ)の地方の越州窯は青磁(いわゆる古越磁)を焼き、第一期の黄金時代を迎える。越州窯はすでに後漢時代に、早くも青磁釉に鉄を混ぜて酸化炎焼成した黒釉(天目(てんもく)釉ともいう)を考案している。
 後漢以後、陶技が著しく衰退していた華北の地では、北魏(ほくぎ)時代(396~534)中期以降に貴族主義を標榜(ひょうぼう)して厚葬の風がおこり、陶技の活動が再開される。緑釉・褐釉のかかった明器(めいき)(副葬品)が盛んにつくられ始めるが、東魏時代には越州窯から技術を導入して青磁や黒釉磁が焼かれるようになり、北斉(ほくせい)時代(550~577)には純度の高いカオリン質の素地に高火度焼成の透明釉をかけた白磁が完成するまでに至った。同時に低火度釉の緑釉を低火度透明釉地に垂らし込んだ白釉(はくゆう)三彩が誕生して、次代の基礎が築かれた。
 唐時代(618~907)には、国是とされた貴族体制に応じて陶磁も貴族の美意識を反映し、西アジア趣味をも盛った精華を極める豊麗な造形が、白磁や三彩(唐三彩とよぶ)でつくられている。器皿のほか、人物、動物、家具、鎮墓獣など、すべて理想美をねらう夢のような焼物が完熟した。
 盛唐の栄華に終止符を打った安史(あんし)の乱(755~763)ののち、晩唐から五代時代にかけては、かつての貴族にかわって市民が主役になり、陶芸も大量生産、大量消費を基本態とする市民指向の時代を迎えた。越州窯はふたたび蘇生(そせい)して秘色(ひそく)青磁を焼き、国内に窯は広がり、湖南省に長沙(ちょうさ)窯、四川(しせん)省に(きょうらい)窯が新しく開かれ、華北には河北省に定窯、河南省に鶴壁集(かくへきしゅう)窯・密県窯・黄道(こうどう)窯・登封(とうほう)窯、陝西省に耀州(ようしゅう)窯などが陸続と開かれて、その量産品は日本をはじめ、遠く西アジアからエジプトまで輸出された。これらは青磁と白磁が中心であるが、華北では白磁のまがい物として白化粧透明釉陶(俗に磁州窯とよばれる陶器)、華南では粗製青磁の黄釉陶が出現し、また両者とも鉄や銅によって釉下に文様を絵付(えつけ)する鉄絵釉裏紅(ゆうりこう)陶を新たにつくっている。
 宋(そう)時代(960~1279)は、中国陶磁の黄金時代と称されるが、完璧(かんぺき)な技巧美を誇る宋磁はけっして寡作の結果ではなく、むしろ量産によって初めて可能な純粋技巧の所産である。青磁窯では越州窯とその後継窯である竜泉窯、陝西省の耀州窯、河南省の臨汝(りんじょ)窯、北宋・南宋官窯が著名であり、白磁窯では河北省の定窯、江西省の景徳鎮窯、また黒釉陶では福建省の建窯、江西省の吉州窯、華北一帯の磁州窯系の窯、河南省の鈞(きん)窯が名高い。とりわけ磁州窯は白化粧地を巧みに文様表現法に利用し、ついに金代(1115~1234)には赤・緑・黄の色絵の具を白釉面に焼き付けた五彩(日本では赤絵・錦手(にしきで)とよぶ)を開発し、次代の新技術の先駆けをなした。
 元時代(1271~1368)は、中国陶磁の転換期に位置づけられる。それまでの青磁と白磁にかわって、コバルトを使って白磁釉下に絵付を施した染付(そめつけ)磁器が景徳鎮窯で創始され、以後、明(みん)(1368~1644)、清(しん)(1616~1912)の陶磁は、この染付磁器が基調となった。明後期(17世紀)には景徳鎮窯は五彩磁を本格的に生産するようになり、清時代になると康煕(こうき)年間(1662~1722)末に西欧から軟らかい琺瑯(ほうろう)質の上絵の具、いわゆる粉彩(ふんさい)(日本では十錦手(じゅっきんで)とよぶ)技法を導入して、普通の絵画用絵の具と同様に多彩な絵付が可能になり、絵付には微細巧緻(こうち)を極める絵画風が成立した。これは今日も受け継がれ、中国の高級器皿の基調は清朝様式が母胎となっている。[矢部良明]
朝鮮
朝鮮半島における陶磁史もやはり土器に始まる。前4000年ころとされる初期の土器の代表的遺跡、ソウル市江南区岩寺洞の住居址(し)からは、櫛目(くしめ)の文様をもつものが出土して朝鮮半島の文明の黎明(れいめい)を示している。前2世紀には漢王朝が半島に進攻し、中国文明が直接伝えられたが、その後の紀元前後のものとされる半島北部の楽浪遺跡からは緑釉陶が出土している。しかし、これがそこで焼かれたのか、あるいは渡来したのかは判明していない。このころ半島の南では、窯を使って還元炎焼成したねずみ色の硬質金海土器(灰陶に属する)が焼造され始め、後の三国・新羅(しらぎ)時代のいわゆる新羅焼の母胎となったばかりか、日本の須恵器(すえき)にも影響を与えている。
 三国時代には灰陶(百済(くだら)・新羅・伽耶(かや))が焼かれ、また数は少ないが緑釉陶(高句麗(こうくり)・百済・新羅)がつくられて施釉陶の系譜を形成したが、676年に半島が統一されて統一新羅時代を迎えると、新たに唐三彩に倣った新羅三彩がくふうされた。
 半島で本格的な磁器がつくられるのは、高麗(こうらい)時代(918~1392)になってからである。中国越州窯青磁の陶技を受けて、9世紀から10世紀初頭には青磁の焼造が現在の全羅南道康津郡や仁川(じんせん)広域市で始まり、12世紀には翡色(ひしょく)とよばれる絶妙な青磁をつくりあげ、さらに12世紀後半には象眼(ぞうがん)青磁を始めて独特の表現を開拓した。青磁はほかに鉄絵青磁、鉄砂彩青磁、画金青磁、辰砂(しんしゃ)青磁などを数え、また白磁、黒釉磁、鉄彩手などもつくられているが、優品は少ない。
 続く李朝(りちょう)(1391~1910)を代表するものは白磁である。京畿道広州郡の広州官窯は、正式の器皿として白磁と染付を焼造し、また各地の民窯は15~16世紀に三島(みしま)、刷毛目(はけめ)など、かつての象眼青磁が展開した奔放な陶器をつくった。日本で珍重される井戸(いど)・熊川(こもがい)・雨漏(あまもり)などの高麗茶碗もこれに含まれる。続く17~18世紀における民窯の力作は、鉄絵や釉裏紅などの磁器であった。[矢部良明]
ベトナム
李朝の12世紀に、ハノイ市、ハイフォン市を含む紅河流域、およびタノア州などで本格的製陶が開始されたベトナムでは、中国・南宋の陶技を受けたとされる黄釉鉄絵、黄釉陶、緑釉陶がつくられ始める。やがて陳朝(1225~1400)後期には青磁や白磁が焼造されるようになるが、これは遺品から判断する限り、中国の景徳鎮窯の白磁や竜泉窯の青磁が母胎となり、14世紀にはその技術のうえに景徳鎮窯の新しい元様式の染付技法が移植されたものと考えられる。そして黎(れい)朝(1428~1788)のときには独自のローカルな染付様式が樹立されたが、18世紀にその伝統は廃絶した。[矢部良明]
カンボジア
ここでは9世紀に開花した名高いクメール文化とともに施釉陶の技術もおこっており、陶技は中国から導入されたと考えられるが、その経緯は判然としていない。802年にジャヤバルマン2世が即位したプノンクレンからは黄緑釉陶窯が発見されており、初め黄緑釉陶、11世紀ごろからは黒褐釉陶が流行し、アンコール文化の終末期にあたる14世紀のバヨン期まで、盛んに製陶活動がなされたと推測される。[矢部良明]
タイ
この国も南部から中部まではクメール文化に席巻(せっけん)された歴史をもち、タイの陶芸の先鞭(せんべん)はクメール陶芸によってつけられたとみられる。タイ国民族が1238年にクメールの要都スコータイを占領してスコータイ王朝を建国して以来、第3代ラーマ・カムヘン王の治世において大いに文化が隆盛し、14世紀には中国の陶技を受けて白化粧地鉄絵陶を焼造し始めている。その様式には元時代の中国の染付磁器の影響が強い。タイ中部のスワンカローク窯、北部のカロン窯、サンカンペン窯などはいずれも初期に元様式を手本として鉄絵陶を焼き、ついで青磁・褐釉陶も焼造しており、15世紀には中国の様式支配を離れてローカルな作風を展開した。しかしベトナムと同様、18世紀になると窯業の消息が絶え、悠久不変の土器だけが日常飲食器用につくられることとなる。[矢部良明]

日本の陶芸


縄文土器から弥生土器へ
日本の陶磁生産史の曙(あけぼの)、すなわち新石器時代の開幕は、名高い縄文式土器の出現によってはっきり把握される。多種多様な縄目の押捺(おうなつ)文様を器表に表す縄文土器は世界各地に認められるが、日本ほど徹底的に縄目文様の表現法を追究した民族はない。この創始年代の決定については、一説には1万2000年ほど前のこととし、また一説には4500年ほど前のこととしている。前説は放射性炭素の半減期をよりどころとし、後説は器形や文様の世界的な分類から割り出した編年法に従っている。中国では前説の方法で年代を大胆に決定してしまったため、前述の年代が容認された形になっているが、その信憑(しんぴょう)性については再検討の余地があるともいわれている。
 わが国の縄文土器は始原時期が明確ではないが、その展開は早・前・中・後・晩期の五期に大別される。まず早期の縄文土器は、底部の先がとがった砲弾形尖底(せんてい)深鉢がその基本形で、中国・朝鮮をはじめ世界のどの地域でも最初期の土器は同様の形態を示す。しかし近年、この尖底土器よりも下層から平底の土器が出土する例もあり、縄文土器の初期の様相が一律ではなかったことが知られるようになった。ただしこれら早期の段階では、押圧(おうあつ)縄文の表現が比較的単純であることは共通しており、九州から北海道まで全国に広がっている。続く前期では、一般に円筒形の深鉢が中心で、羽状に広がる縄文に特色がある。中期は最盛期にあたり、深鉢のほか壺(つぼ)、把手(とって)付壺など複雑な器形が考案され、大作がつくられているが、自由奔放な空想が手先を通して形象化され、その錯綜(さくそう)した奇怪な創造力が、その形と大胆豪快な構図に充満している。さらに後期に入ると、形・文様とも整理された統一感と落ち着きをみせるようになるが、縄文を施した地文の一部を磨消してゆく縄目文様に特色がある。この時期には、焼成時に炭素を含ませたあと器表を磨くという、進歩した装飾法によって光沢を出した黒褐色の研磨土器も出現した。晩期の縄文土器は、亀ヶ岡式土器とよばれる東北・関東・中部地方の土器と、黒土B式とよばれる中部・九州地方の土器が相対峙(たいじ)するように分布する。以上五段階に分けられる縄文土器はすべて粘土紐(ひも)の巻き上げ法により成形され、露天のたき火で焼成されており、ろくろや窯(かま)といった高度な技術革新はおこらなかった。この土器の段階での長期にわたる技術の停滞は、結局日本の陶磁史を進展させる力を内から育てず、外からの刺激を待つ結果を招いたといわれる。
 前2世紀ごろ、西日本で新しい土器が焼かれ始める。縄文土器と同じく粘土紐を巻き上げて成形し、乾燥ののち、窯を用いずに露天で柴(しば)枝をもって焼成する酸化炎焼成法であるため、赭(しゃ)褐色に素地(きじ)肌は焦げるが、縄目の文様はすでに少なく、流麗な器形の曲線美が目だつ。これが弥生(やよい)土器であり、大陸や朝鮮半島から様式が伝えられたとする説が有力であったが、近年は異説も唱えられていて決着をみていない。ただこの造形の気運が九州からおこったことは確かで、初期の弥生土器(板付(いたづけ)式土器)は玄界灘(なだ)に面した北部九州一帯に分布している。弥生土器は前・中・後期の3期に分類されるが、九州から瀬戸内や畿内(きない)を経て東海地方にまで急速に伝播(でんぱ)したあと、愛知県東部以東、東北地方へまで拡大していくのは中期になってからである。
 器形はいずれも各部分の抑揚がほどよく調和を保ち、器形に沿って刻線や貼付(はりつ)け文様が破綻(はたん)なく施されており、今日の造形に通ずるその諧調(かいちょう)と様式美によって、現代工芸の母胎とも評価される。そしてこの時点で、日本の陶技は縄文土器の新石器文化的表現から決別する。ただし縄文土器から弥生土器へと展開した露天焼きの赤焼土器の系譜は、その後の古墳時代の4世紀以降も連綿と続き、「土師器(はじき)」「かわらけ」とよばれる軟質土器として今日まで及んでいる。これらはもっとも普及度の高い消耗品であると同時に、清いものとして神聖視され祭器にも重用されているが、そのように高次元の性格を備えながら高邁(こうまい)な造形精神の表現対象とならなかったのもまた土師器の特色であった。[矢部良明]
須恵器の登場
古墳時代の5世紀には、将来の可能性を秘めた高度な製陶技法、すなわち須恵器(すえき)が朝鮮半島から導入された。長石を多く含む耐火度の高い粘土が選ばれ、ろくろあるいは単純な回転台にのせて成形され、窯が築かれて強力な還元炎で焼成されるが、窯は不完全燃焼の燻べ焼法(くすべしょうほう)であるため素地に炭素が付着して、肌は黒灰色を呈する。これは中国風によべば灰陶(かいとう)の一種であり、中国よりも6000年遅れてようやく、わが国の陶磁史は高火度焼成の硬質灰陶の時代を迎えたといえる。この須恵器の発祥については、朝鮮半島からの帰化人が多く住んだ河内(かわち)国(大阪府南部)にあたる堺(さかい)市の陶邑(すえむら)古窯址(し)群が最初に開かれて全国に流布していったという一元論と、同時多発性を唱える多元論があって決着をみていない。製品はそれまでの弥生土器や土師器とはまったく異なり、壺、甕(かめ)、瓶、杯(さかずき)、高坏(たかつき)(わん)、碗(わん)、皿、甑(こしき)、鉢、硯(すずり)、水滴、装飾付器など多種多様な器皿のほか、馬、塔などの彫塑物まであり、器形を細分すると120種にも上っている。須恵器は素地面に燃料の灰がかかって自然釉をつくることがよくあり、この点は中国の灰陶と異なっていて、むしろ印文硬陶に近いという二つの性格を併有していた。しかしこの自然釉に着目して人工施釉(せゆう)の方向へは進まなかったようで、日本における施釉陶の出現はふたたび朝鮮半島からの新しい刺激によらなければならなかった。[矢部良明]
三彩陶の創始
7世紀後半の奈良の川原(かわら)寺出土の緑釉磚(せん)や大阪府河南町塚廻(つかまわり)古墳出土の緑釉棺によって、当時鉛(なまり)を溶媒剤として長石を溶かした低火度の鉛釉陶が焼かれていたことが推測されるが、これは朝鮮半島の百済(くだら)か新羅(しらぎ)から鉛釉系の緑釉(含まれている銅が緑の発色をする)の技術が伝えられたものと考えられている。しかし本格的な施釉陶の胚胎(はいたい)は奈良時代の8世紀になってからであり、唐三彩の釉法に従って緑・褐・白色の鉛釉をかけ合わせた三彩釉(俗に奈良三彩という)の完成は729年(天平1)以前のことである。三彩釉の遺品は正倉院に大瓶・鼓胴・塔・鉄鉢(てっぱつ)・皿などが良好な状態で伝わり、また東は福島県から西は福岡県まで広域にわたって広口壺、小壺、浄瓶、多嘴(たし)壺、火舎(かしゃ)香炉、大瓶などが出土して、奈良朝貴族文化の地方伝播を知る重要な資料となっている。ただ、奈良三彩は唐三彩と同じ形姿のものがなく、大半は金属器を手本としている。[矢部良明]
緑釉陶と灰釉陶
平安時代になると三彩釉法は過去のものとなり、9世紀以降急速に輸入量を増やしていく中国の越(えつ)州窯青磁の流行に伴って、青磁の代替品が緑釉陶で焼造され始める。これはおもに律令(りつりょう)制組織にのっとって地方へ伝えられたものと考えられているが、器種は碗、皿を中心に水注(すいちゅう)、瓶、壺、唾壺(だこ)、灯盞(とうさん)、香炉などで、祖型は中国の越磁に求められるものが多い。こうした緑釉陶の焼造は平安前半(9~10世紀)に隆盛をみたが、11世紀になって中国製陶磁の輸入が激減するのに呼応して、その生産は急速に沈滞した。緑釉陶の窯址は京都を中心として畿内(きない)の滋賀、大阪、奈良、和歌山に16か所発見されているほか、愛知県と岐阜県にも14窯確認されているが、後者は畿内よりも遅れていて10世紀以降であり、9世紀にはない。この現象は、この地域には名高い猿投(さなげ)窯が大規模窯群を形成していたことと深くかかわっており、それまで須恵器を焼いていた広義の猿投窯が畿内に遅れて緑釉陶をもあわせて焼いたとも考えられる。つまり、9世紀に大阪の陶邑窯にかわって須恵器窯の主座についた猿投窯は、越州窯青磁に触発されて、青磁の初歩段階にある灰釉(かいゆう)陶を焼造し始めたという見方も成り立つ。遺品には越磁の形を写したものも少なくないが、現存の優品は多嘴壺、広口壺(俗に薬壺(やくこ)とよぶ)、浄瓶など奈良朝以来の器種が多い。しかしこの灰釉陶も畿内の緑釉陶と同じく11世紀には精彩を欠くようになり、施釉も大ざっぱになって粗悪化すると同時に量産化が進み、12世紀には無釉の製品へと堕していった。いわゆる山茶碗はその典型である。[矢部良明]
平安時代から室町時代の諸窯
平安後期の12世紀は、焼物にとっては新時代の到来となる。その主役を演ずるのは猿投窯から分派していった東海地方の諸窯で、これら新窯は二つの方向をとった。一つは知多半島の常滑(とこなめ)窯、渥美(あつみ)半島の渥美窯に代表される壺・甕・すり鉢を焼く民間の雑器窯であり、もう一つは名古屋市の東山窯、瀬戸市の瀬戸窯へと続く四耳壺(しじこ)、水注、瓶子(へいし)など高級什器(じゅうき)を焼く窯である。この二つの方向が、のちに鎌倉・室町時代の製陶を色分けしていくことになるのであるが、その推移のなかで、諸地方の須恵器窯も歩調をあわせて時流の器種を主製品とするようになっていく。常滑窯と渥美窯の傘下に入る雑器窯としては、北は宮城県の伊豆沼窯、多高田(たこうだ)窯、水沼窯、東北(とうきた)窯に始まり、新潟県の狼沢(おおえんざわ)窯、石川県の加賀(かが)窯、福井県の越前(えちぜん)窯、滋賀県の信楽(しがらき)窯、兵庫県の緑風台窯・丹波(たんば)窯などがある。また伝統的な須恵器窯では石川県の珠洲(すず)窯がとくに名高いし、12世紀までは須恵器窯であった岡山県の備前(びぜん)焼は、13世紀になって常滑窯と同じ酸化炎窯へと移行した。これらの窯は、いずれも粘土紐巻き上げ法を基本成形法として壺・甕・すり鉢を主産品とする窯であり、寿命の長短はあれ、中世の特色を形づくっている。
 これに対して愛知県の瀬戸窯は、13世紀に入ると猿投窯の影響を受けてふたたび灰釉陶をつくり始め、四耳壺、水注、瓶子など、輸入中国陶器を手本とした高級什器を製作した。14世紀には釉技が改良され、滑らかな黄緑色の黄釉、さらには鉄呈色による黒褐釉(天目釉)も開発され、花瓶、天目茶碗、茶入れ、香炉などの茶具を併焼し、唐物(からもの)写しの体質をよく深めて1320~30年代に最盛期を迎えた。
 室町時代(14~16世紀)になると渥美窯は衰滅し、常滑窯も指導力を失い、瀬戸窯も作陶力が低下して、愛知県の陶芸は低迷期に入る。そして逆に備前、丹波、信楽、越前などの窯が独自の作風で個性を発揮するようになるが、こうした状況に活を入れたのが茶の湯の勃興(ぼっこう)である。侘(わ)びに対する明確な美意識のもとに、茶人は在来の中世陶窯に独創的な茶具(水指(みずさし)、茶碗、花入れ、香合、鉢、向付(むこうづけ)など)を依頼し、戦乱期を生きた各地の陶工は、室町末期から桃山時代にかけて創造力あふれる画期的な作陶を展開した。
 一方、瀬戸焼の系列下にあった美濃(みの)焼は、長石を使った白釉を創始し、鉄絵を加えた絵志野(しの)のほか、紅(べに)志野、鼠(ねずみ)志野、赤志野、練上(ねりあげ)志野をつくりあげ、また従来の黄釉を失透性の黄瀬戸釉に変え、銅呈色の緑釉もくふうして、鉄絵と組み合わせた織部(おりべ)陶を完成させている。さらに従来の黒褐釉も、窯中から一挙に引き出して冷却させる新技法によって、瀬戸黒、織部黒に生まれ変わった。こうして豊かな造形に色彩豊かな釉下絵付が加わり、かつての陶磁器ではみられなかった明快で雅味ある表現が可能となった。同じころ三重県伊賀(いが)地方に、徹底して焼き込むことによって侘びの美を表す個性的な伊賀焼が茶陶として台頭してきたことも特筆される。[矢部良明]
桃山の茶陶
天正(てんしょう)年間(1573~92)には、中世を通じて焼物の不毛地帯であった九州にも陶窯が開かれた。佐賀県西部に広く古窯址が広がる唐津(からつ)焼がそれである。さらに豊臣(とよとみ)秀吉による文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役を契機に、朝鮮半島からの帰化陶工が佐賀県西部一帯に開窯し、割竹式登窯(のぼりがま)を導入している。以後、唐津焼は長石質の透明釉のほか、藁灰(わらばい)質の白濁(はくだく)釉、木灰質の黄緑色釉、鉄呈色の黒褐釉を基礎釉とし、下絵付には鉄絵の技法を加え、さらに江戸時代になると、銅呈色の緑釉を登場させている。そして無地唐津、黒唐津、黄唐津、絵唐津、奥高麗(おくこうらい)、朝鮮唐津、三島唐津、三彩唐津など多様な作風を繰り広げた。朝鮮半島の帰化陶工はまた、各地の領主の殖産政策にのって窯を開いた。筑前(ちくぜん)(福岡県)に高取焼、豊前(ぶぜん)(福岡県)に上野(あがの)焼、薩摩(さつま)(鹿児島県)に薩摩焼、長門(ながと)(山口県)に萩(はぎ)焼が始まったのは、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)かその直後とされている。[矢部良明]
江戸時代の陶芸
江戸時代(17~19世紀)になると、陶業には一種の世代交替ともいうべき変化がおこり、桃山時代に先達となった美濃焼、伊賀焼、備前焼は後退または衰亡し、かわって京都の京焼と佐賀県の伊万里(いまり)焼が主導性を握っていく。まず京都では、すでに桃山時代に楽(らく)長次郎が小規模な楽焼を始めておもに茶碗に力作を残していたが、これ以後、東山に高火度の陶窯が開かれ、正保(しょうほう)年間(1644~48)には野々村仁清(にんせい)が御室(おむろ)焼の中心的存在となって活躍し始め、京焼の作風を大成した。その中心的技術は上絵付にあった。高火度の透明釉を白素地に施し、その上に赤、緑、黄、紫、青などの上絵の具(焼物用の特殊な絵の具)を使って、大和(やまと)絵、蒔絵(まきえ)、唐(から)絵などに取材した典雅な意匠を繰り広げたのである。さらに、ろくろの達者な仁清が、桃山時代のデフォルメされた器皿をメカニックな工芸本来の姿へと復し、工芸を技術美の世界に引き戻したことも特筆される。
 このように江戸前期(17世紀)に陶磁界の寵児(ちょうじ)となったのは、染付や色絵に象徴される下絵付と上絵付の絵付陶磁であるが、この技法は京焼よりやや早い1610~20年代、有田(佐賀県)に日本で最初の磁器窯が開かれたことに端を発している。これによって有田一帯の陶窯が磁器窯へと転じ、本格的な絵付磁器の時代が開幕した。有田焼は、その製品が伊万里港から出荷されたため、当初から伊万里焼とよばれているが、新しい磁器窯では京焼と違って、終始中国の磁器様式を母胎として作風を固めたところに特色がある。そして1647年(正保4)ごろ酒井田柿右衛門(かきえもん)が色絵磁器を開発したことにより生産の技術基盤が確立し、1659年(万治2)にはオランダ東インド会社からの大量注文を受けて作風も大作主義となり、西欧貴族の意を満たす柿右衛門様式とよばれる精妙な色絵磁器がつくられ、国内向けには重厚な味わいの古九谷(こくたに)様式の色絵磁器が焼かれることとなった(これには異説もあるが、表現形式こそ違え、両者とも日本化された中国趣味をベースにしており、諸資料によっても伊万里焼の製と判断される)。また同じころ、伊万里焼を領有する鍋島(なべしま)藩は独自の窯を伊万里市大川内(おおかわち)に築き、鍋島焼とよばれる独創的な精磁をつくりあげている。
 江戸中期(18世紀)になると全国各地に陶磁器窯が開かれ、各藩もこぞって御庭(おにわ)焼を始めるなど空前の活況を呈して、多種多様の様式が展開したが、とくに際だつ成果は、尾形乾山(けんざん)、奥田穎川(えいせん)、仁阿弥道八(にんなみどうはち)、青木木米(もくべい)、永楽保全(えいらくほぜん)らを代表とする京都の陶工が成し遂げている。[矢部良明]
近代の陶芸
幕末の混乱期を経て明治維新を迎えた陶磁界は、目覚ましい技術革新を経ながら伝統様式も展開させ、世界に通用する陶磁が競ってつくられた。しかし時流を形成するような大きな動きはみられず、特筆されるのは個人陶工の作品である。宮川香山(こうざん)(1842―1916)、3代清風与平(せいふうよへい)(1850―1914)、9代帯山与兵衛(たいざんよへえ)(生没年不詳)、加藤友太郎(1851―1916)、竹本隼太(はやた)(1848―92)らが釉法を鋭意改良し、技巧主義による精巧な秀作を残している。
 大正時代になると、芸術活動としての陶芸制作が楠部弥弌(くすべやいち)(1897―1984)を中心とする赤土(せきど)社のメンバーで企図され、また河井寛次郎(1890―1966)、浜田庄司(しょうじ)(1894―1978)らは民芸の旗印を掲げて新様式を樹立した。
 昭和に入ると帝展や国画会に工芸部門が設けられ、板谷波山(はざん)(1872―1963)、富本憲吉(1886―1963)らが活躍、また金重(かなしげ)陶陽(1896―1967)、荒川豊蔵(とよぞう)(1894―1985)、加藤唐九郎(1898―1985)らは古陶磁を手本とする復古主義を唱えて作陶し、新旧の様式が混在する現代の陶芸界の潮流が醸成された。[矢部良明]
現代の陶芸
第二次世界大戦後まもない1946年(昭和21)に京都の若い陶芸家が「青年作家集団」を結成し、そのなかから走泥(そうでい)社が48年に誕生する。現代美術の多様な先進性を焼物の分野に取り込もうとする八木(やぎ)一夫(1918―79)や鈴木治(おさむ)(1926―2001)らがその代表者であった。その結果、オブジェの造形を求める焼物は彫刻ときわめて近い表現領域が開拓された。その成立に大きな刺激を与えたのは彫刻家のイサム・ノグチの作品であった。
 土を素材とする非実用的なオブジェの制作は、実用という規定性がないために自由な創意が個性の赴くままに展開し、意表をつく造形物がつくられる。人間の意思、情念、感情、思惟(しい)などが形式を打破したところに表現され、長く工芸の基本造形原理であった「多様の統一」は完全に否定された。ここに人間の精神の工芸が唱導され、現代美術の重要な一分野として定着しつつある。[矢部良明]

オリエントと西洋の陶芸


エジプト、ギリシア、ローマ
(うわぐすり)の起源は紀元前2000年代のエジプトに始まる。ソーダ、カリを溶媒剤としたアルカリ釉(ゆう)で、青緑色の下に黒色で人物などの文様を描いた皿や鉢などの低火度釉陶器がつくられ、前7~前6世紀のバビロニア時代には、れんがに釉をかけた怪獣のレリーフが首都バビロンの壁面を飾った。一方、クレタ島では前2000年ごろにクノッソスやフェストスの宮廷で無釉の陶器がつくられ、黒ずんだ肌に花、草、貝、タコなどを描いた「カマレスの壺(つぼ)」がエーゲ海域やエジプトに向けて輸出された。ミケーネ文化の滅亡とともに一時衰えたギリシアの陶器製作が、ようやくオリエント交易を通して新たな誕生をみたのは、前800年ごろである。その端緒を飾ったコリント式の壺は、赤土の素地(きじ)に黒陶土で図柄を描き、1000℃近い火熱で焼き上げたもので、モチーフに東方の空想動物、水鳥、パルメットやロータスを用いるなど、東方の影響が強い。これらの壺はコリントの港から、小アジアや南イタリアへ向けて広く輸出された。アルカイック期から古典期にかけて急速に発展をみたのは、アテネを中心としたギリシアの陶器である。前7世紀の幾何学様式の装飾を施した器に対して、図像の部分を黒く塗ったいわゆる黒絵式陶器が前6世紀に生まれ、さらに前5世紀以降には図像の部分を赤で彩色し他を黒で埋めた赤絵式陶器が発明され、これは古代世界のもっとも優れた陶器とされる。そのモチーフはギリシア神話や日常生活に取材したものが多い。
 これら黒絵式・赤絵式陶器とは別に、前5世紀初めのアッティカ地方では、葬祭用の白地レキトスが現れた。これは死者に香油を注ぐ器で、わずか1世紀で姿を消したが、その絵付(えつけ)には胸を打つ光景も少なくない。他方、前8世紀ごろから前3世紀にかけエトルリア文明が開花したイタリア半島北部では初め土着のビッラノーバ文化の影響を受け、エトルリア独自のブッケロとよばれる黒陶の骨壺や水差しをつくった。これに続いて、前6世紀以降は神像や墓像など、等身大の彫刻をすべてテラコッタで製作した。チェルベテリ出土の夫婦半臥(はんが)像のある陶棺はその典型であるが、このエトルリアも前5世紀には新興のローマ帝国の支配に屈した。
 古代の終焉(しゅうえん)を飾るローマ時代の工芸の主役はガラス器と青銅器で、陶芸はあまり著しい発展をみないが、帝政初期にアレッツォで大量生産された押型の浮彫り装飾をした赤褐色の陶器と、紀元後2世紀以降ローマで焼成された鉛釉(なまりゆう)の陶器は特筆される。前者がその後アルプスを越えて、ゲルマンの地やイングランドのローマ人駐屯地から多量に出土しているのに対し、後者は現存する作例は比較的少ないが、東地中海地域に広く伝播(でんぱ)し、ローマ帝国の発展とともにパルチア王国やインド、中国へも及び、ビザンティン時代へと引き継がれていった。[前田正明]
イスラム(ペルシア)陶器
ローマの影響下に隆盛したパルティア王国が3世紀初めササン朝ペルシアに滅ぼされたあと、8世紀なかばにイスラムのアッバース朝(サラセン帝国)の時代を迎えて、陶器の製造は急速な進展を遂げた。イスラム陶器の代表的なものは、ラスター陶器とアラベスク文様のミナイ手である。ラスターは釉の上にごく薄い金属質の被膜をかけることにより、表面が虹(にじ)のように光るラスター効果を出したもので、酸化錫(すず)の入った白釉をかけて焼き上げた器に、銀や銅などの塩化物と黄土を混ぜた釉薬を用いて低火度で焼成する。またミナイ手は、ペルシア陶器のなかで上絵のつけられた高級品をいうが、素地に釉をかけた上に絵の具で文様を描いて焼き込み、さらに絵の具をかけて焼き込むという手法で、皿や鉢の中に絵巻物風に人物を描き、縁や外側にアラベスク文様を配したものが多い。ミナイ手は12~13世紀に多くつくられ、蒙古(もうこ)の襲来によって衰滅したが、東では中国の元(げん)・明(みん)の陶器に影響を与え、西ではマジョリカ(マヨリカ)陶器の源流となった。[前田正明]
中世
4世紀に入ると、文化の舞台はコンスタンティノポリス(イスタンブール)を中心としたビザンティン世界に移る。ビザンティン時代の陶器は、先のローマ時代の押型装飾に鉛釉をかけた陶器で始まるが、7~9世紀にはイスラム陶器の発展に触発され、ビザンティン帝国領内の各地で多数の施釉(せゆう)陶器がつくられた。なかでも代表的なものは白地に黄、緑、茶色などで絵付した上に鉛釉をかけた白地色絵陶器と、赤褐色地に白いスリップをかけ、細部を掻落(かきおと)しで装飾した、いわゆるスグラフィアト手陶器の二つである。これらの陶器は中皿、碗(わん)、杯(さかずき)、ゴブレット、陶板など多種にわたり、装飾のモチーフもキリスト教の十字文、葡萄唐草(ぶどうからくさ)文、薔薇(そうび)文、鱗(うろこ)文、組紐(くみひも)文のほか、鷲(わし)、鳩(はと)、魚、有翼の怪獣グリフォン、鹿(しか)、山羊(やぎ)など鳥獣類、人物に及んでいる。
 ビザンティン陶器が11~13世紀を盛期として東ローマ帝国領内で大きく開花したのに対し、西ローマ帝国領内の陶芸は世紀を重ねるにつれて往時の活気を失い、とくにアルプス以北のヨーロッパでは衰退が早く、5~6世紀ごろには農民の雑器として素焼の皿や鉢が焼かれていたにすぎない。たとえば、イギリスではローマ帝国時代には東部のニューカッスルやコルチェスターで素朴ながらも赤褐色のテラ・シギラタ陶器やスリップ装飾のカストール陶器が製作されていたが、5世紀以降9世紀ごろまでは、ろくろの使用すら忘れられてしまっていた。イギリスで緑あるいは黄色の鉛釉をかけた陶器が焼かれるようになるのは、11世紀のノルマン征服以降である。フランスでもパリやボーベなどの窯場でようやくジャグやマグなどの陶器が焼かれ、農民の日常用の需要をまかなったのは9~10世紀になってからである。以後ヨーロッパでは、16世紀にイタリア・ルネサンスの波及でマジョリカ陶器が伝播されるまで、ほとんどの地域で素朴な鉛釉陶が焼成されたにすぎない。これらは素地が粗く、厚手で、装飾には線刻もしくは浮彫りが施され、文様は人物、動物、紋章、また彩色には銅緑やアンチモンの黄色が多い。
 14~15世紀のチロール地方や高地ドイツのストーブ・タイル、イギリスのジャグやマグなどの素朴な味わいを伝える陶器を含め、中世ヨーロッパではほぼ全域で鉛釉陶器が用いられたが、ライン川流域では例外的に、中世末期から近世初頭にかけて塩釉(せっき)が焼成されていた。これは厚手の地の器を焼成するとき、高温の窯の中に塩を投げ込んで焼き締めたものである。またケルンとその近隣のレーレン、フレッヘンでは茶褐色地のジャグの頸部(けいぶ)に髯(ひげ)を生やした男の顔を浮彫りにした、いわゆる「ひげ徳利(とくり)」Bartmann Krugが数多くつくられて庶民の人気を集めた。[前田正明]
近世
8世紀にアラビア半島のイスラム教徒がイベリア半島に侵入すると、イスラム陶器の技法がスペインにも移植された。軟質の素地に化粧掛けを施し、錫(すず)釉でアラビア文様を絵付した、いわゆるイスパノ・モレスク陶器Hispano-Moresque wareがこれである。初めはマラガ、セビーリャ、グラナダがおもな産地として知られていたが、14世紀ごろから、イスラム教徒とキリスト教徒との戦乱を避けた陶工たちがバレンシア地方に集まり、マニセスを中心に美しいラスター陶器をつくるようになった。1400年ごろに製作された「アルハンブラの壺」とよばれる一群の作品は、アラベスク装飾文様を活用し、翼のような把手(とって)をつけるなど、きわめて幻想的な趣(おもむき)がある。イスパノ・モレスク陶器は中世後期から近世初頭にかけてヨーロッパ各地に輸出され、これを模倣したイタリアでは、のちに多彩色絵の美しいマヨリカMaiolica陶器として開花した。[前田正明]
マジョリカ陶器
ヨーロッパ近世の陶芸の一つの端緒となったマジョリカ陶器の名称は、イスパノ・モレスクがスペインのマジョルカ島(イタリア語名マヨリカ、英語名マジョリカ)を経由してイタリアに輸入されたことに基づく。マジョリカ陶器は当初は水差しや薬壺など実用品に占められていたが、やがて絵画的表現の絵付がなされるとともに装飾品の性格を強め、15世紀末からオルビエト、フィレンツェ、ファエンツァ、シエナなどで盛んにつくられて最盛期を迎え、16世紀初頭にはウルビーノが主要産地となった。やがてその技法はフランスやフランドル地方に伝えられ、それぞれの地域の伝統と結び付いて特色ある作品を生んだ。当時の著名な作陶家としてグッビオのアンドレオーリ、カステル・ドゥランテのペリパリオがいる。
 17世紀の中ごろになると、中国と日本との貿易権を独占していたオランダによって、本格的な東洋の磁器がヨーロッパにもたらされた。これらの磁器は、高度な技術的成果による美しさや精緻(せいち)さ、異国趣味によって、王侯貴族の争って求めるところとなり、デルフトの陶工たちは陶器による模倣を行った。彼らは粒子の細かい白土で薄手の器胎をつくり、純白の錫釉をかけて、外観は中国明(みん)代の染付や赤絵、日本の伊万里(いまり)や柿右衛門(かきえもん)とほとんど変わらない磁器もどきの陶器をヨーロッパ各地へ出荷したのである。この種の陶器の主産地となったデルフトは、その後約1世紀にわたってヨーロッパ陶芸の中心地となった。[前田正明]
ヨーロッパの磁器
東ドイツ、ドレスデン近郊のマイセンでは、すでに13世紀ごろから高温焼き締めの施釉硬質陶器をつくっていたが、中国や日本の磁器の熱烈な収集家として知られるザクセン王アウグスト2世が、錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベドガーに磁器づくりの開発を命じたのが17世紀末である。1709年にはマイセン近郊で磁器の土となるカオリンが発見され、ベドガーはついに全ヨーロッパ待望の白色磁器の焼成に成功した。その翌年にはヨーロッパ初の王立磁器製造所がマイセンのアルブレヒブルク城内に建設されている。18世紀はヨーロッパの東洋趣味がもっとも盛んであった時期で、マイセン窯も初めは中国の五彩磁器や日本の古伊万里、柿右衛門のコピーをつくっていたが、しだいに純ヨーロッパ風のロココ様式が主流となり、王侯貴族の食卓にふさわしい豪華な食器や、精細な磁器人形がつくられるようになった。マイセン窯の有名なパターンである「ブルー・オニオン」(青いタマネギ)は中国の染付にある柘榴(ざくろ)文をタマネギと間違えて写したものであるが、そのコバルト・ブルーの上絵の具は、ベドガーの苦心をいまに伝えている。
 マイセンに次ぐヨーロッパで2番目の磁器窯は、1717年に神聖ローマ帝国の首都ウィーンに築かれて、ハプスブルク王朝の栄華を伝えるバロック、ロココの風俗を描いた飾り皿や人形が上流社会で愛用された。さらに磁器窯はニュンフェンブルクをはじめ各地にも伝播していくが、当時の作家としてはマイセンの陶画家J・G・ヘロルト、磁器彫像家のJ・J・ケンドラー、ニュンフェンブルクのフランツ・A・ブステリらが名高い。ウィーンの磁器窯は1864年に閉じられたが、第一次世界大戦後に再興され、生産量こそ少ないが、主として手描(てが)きによる伝統的な絵付と高品質とによって人気を集めている。
 他方、フランスに目を移すと、ルイ王朝全盛期に宮廷の威信をかけて磁器の開発が急務とされ、シャンティイ窯で磁器製造の秘法を学んだ陶工デュボア兄弟を招いて、バンセンヌに開窯したのが1738年のことである。その後ルイ15世の寵妃(ちょうひ)で愛陶家のポンパドゥール夫人の提言をいれて窯をベルサイユ近くのセーブルに移し、ここにフランス王立セーブル磁器製作所が開窯し、組織的に磁器生産を始めた。ここでは「王者の青」(ブリュー・ド・ロア)とよばれる紺地に金の手描きでロココ趣味を表したものや、「ポンパドゥールのバラ色」とよばれる華麗な色彩の作品を生んだ。これらはいずれも軟質磁器とよばれるもので、カオリンを原土とする硬質磁器とは異なり、珪砂(けいさ)とソーダと石膏(せっこう)に石灰を加えて素地としたものである。しかしやがて1766年にはリモージュ近郊で良質のカオリンの鉱床が発見され、待望久しい硬質磁器が製造されるようになった。セーブル窯で焼成された製品は、当時はすべて王宮の調度品や外国の王族・外交官への贈り物として用いられていたが、フランス革命によって窯は国有化され、一般大衆用のものも焼かれるようになって現在に至っている。このほかフランスでは、わが国の柿右衛門の絵付で知られるシャンティイ窯をはじめ、ルーアン、マルセイユなどの製品が注目される。
 海を越えたイギリスでは、中世以来作陶の中心地はスタッフォードシャー地方のストーク・オン・トレントであった。ここでは陶器製造に適した陶土と石英、および木材に恵まれたことに加え、18世紀には大量生産が可能となってオランダのデルフトをしのぎ、ヨーロッパ市場に進出した。産業革命を先取りし、作陶技術の改良と機械化によって製品の廉価化を図ったジョサイア・ウェッジウッドは、日常陶器のほかに美術陶器の生産にも着手し、カメオ風のジャスパーやクイーンズ・ウェアなどの新製品を発表し、イギリス陶工の父といわれている。ジャスパーは青や緑の地に白い模様(カメオ仕上げ)をレリーフ状に貼(は)り付けたもので、ウェッジウッドが理想としていたギリシア神話の世界やイギリスの風景、建物などがモチーフとなっている。
 イタリアの磁器焼成は、古く16世紀にフィレンツェのメディチ家が焼かせた「メディチ磁器」が知られるが、これは白土、珪砂、ガラスを胎土とした擬似磁器で、18世紀以後ヨーロッパで焼成された真性の磁器とは異なる。近代以降のイタリアにおける磁器焼成は、1720年ベネチアで開窯したベツィ窯、35年カルロ・ジノリがフィレンツェに開窯したドッチア窯、43年開窯のナポリのカーポデモンテ窯、64年コッチによるコッチ窯、65年のル・ノベ窯などを数える。なかでもカーポデモンテ窯は18世紀イタリアを代表する名窯として名高い。その開窯は、ナポリ王国カルロス4世の妃(きさき)がザクセンのアウグストゥス3世の娘であったことから、結婚を機にマイセンの磁器焼成の秘法が伝授されたことによる。したがってカーポデモンテ窯の作風はマイセン磁器を踏襲しているが、素地は硬質でなく軟質磁器であった。1759年にカルロス4世がスペイン国王としてマドリードに移ったことから、工房もマドリード郊外のブエン・レティロに移築され、スペイン王立磁器窯として隆盛をみたが、1812年に閉窯となった。またドッチア窯以外の前記の窯も、同じころ相次いで閉窯している。[前田正明]
現代
19世紀になると、産業革命の影響を強く受けて、陶芸も型や転写を用いた大規模な量産が行われるようになった。かつては宝石に次ぐ貴重品ともされた陶磁器は、日用品的な性格を帯びるようになったが、その反面、近年はとくに手仕事による高級品への志向も高まっている。また第二次世界大戦後、カイ・フランク、ウィルヘルム・コーゲらのデザイナーの活躍のほか、コクトー、ピカソ、ミロらの詩人や画家によって、陶芸は造形の一ジャンルとしても用いられ、新しい芸術分野としての展開をみせている。[前田正明]
『『世界陶磁全集』全22巻(1975~86・小学館) ▽『日本陶磁全集』全30巻(1975~78・中央公論社) ▽『日本やきもの集成』全12巻(1980~82・平凡社) ▽『探訪日本の陶芸』全12巻(1979~80・小学館) ▽佐藤雅彦・長谷部楽爾・林屋晴三編『東洋陶磁』全12巻(1980~82・講談社) ▽『西洋陶磁大観』全8巻(1978~79・講談社) ▽由水常雄著『図説西洋陶磁史』(1977・ブレーン出版)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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