神奈川町
かながわまち
[現在地名]神奈川区浦島丘・浦島町・神奈川一―二丁目・神奈川本町・亀住町・斎藤分町・新町・立町・富家町・鳥越・中丸・西神奈川一―三丁目・二本榎・白楽・東神奈川一―二丁目・平川町・二ッ谷町・栗田谷
近世には西に続く青木町とともに神奈川宿を形成し、南は海で、東は新宿村・東子安村・西子安村の三村が錯雑して続き、北は白旗村・六角橋村に接する。中世には多く神奈河と記され、金川・狩野河とも記される。元禄郷帳では神奈川町、天保郷帳では神奈川宿と記される。
文永三年(一二六六)五月二日の北条時宗下文(県史一)によれば、「鶴岡八幡宮領武蔵国稲目・神奈河両郷役夫工米」を免除するよう命じている。正平七年(一三五二)閏二月、新田義宗(義貞の子)が鎌倉に攻め入ると、足利尊氏は鎌倉を捨て「武州狩野河」にいったん立籠った(「園太暦」同年三月四日条所載閏二月一九日「新田義宗注進状写」)。永和四年(一三七八)八月三日の武蔵守護上杉憲春施行状(県史三)によれば、神奈河や品河(現東京都品川区)以下の浦々に出入する船にかかる帆一反につき三〇〇文の帆別銭が、この年から三ヵ年にわたり鎌倉円覚寺仏日庵造営費用として寄進されている。武蔵国品河・神奈河両湊帆別銭納帳(同書)によれば、神奈河湊からは明徳三年(一三九二)には二〇貫文、翌四年には五三貫文、応永元年(一三九四)には品河湊と合せて一三二貫文、同二年も同じく二六貫文、同三年も同じく七三貫文の帆別銭が納められている。同元年には神奈川湊はほぼ毎月一〇貫文ずつ納めているので、湊の規模は品河に比して相当大きかったと推定される。同二年七月二四日、上杉憲定は前年一〇月二四日に没した父憲方の遺跡である神奈河郷などを、室町幕府によって安堵された(応永三年七月二三日「室町幕府管領施行状」同書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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