福岡城跡(読み)ふくおかじようあと

日本歴史地名大系 「福岡城跡」の解説

福岡城跡
ふくおかじようあと

[現在地名]中央区城内

江戸時代の福岡藩の藩庁で、藩主黒田氏の居城。舞鶴まいづる城ともいう。国指定史跡。平山城の城郭は現在の城内じようないに位置し、かつては四方を堀に囲まれていたが現在は北側部分と南側の一部が残り、西側の大堀部分は大濠おおほり公園となっている。城地となった当時の福崎ふくざきは古代には大宰府鴻臚こうろ(筑紫館)が置かれ、近代には福岡歩兵第二四連隊の営舎があった。

〔築城の経緯と城の構造〕

 慶長五年(一六〇〇)黒田長政は豊前国中津から筑前国に入国した。福岡県史編纂資料のうちの文書によると、初め黒田長政は博多の徳永宗也宅、父如水は同じく神屋宗湛(福岡築城にあたっては島井宗室とともに資金援助を行ったという)宅を宿所とし、同年一二月八日に名島なじま(現東区)本丸で城の請取りが行われた。長政の名代に立ったのは黒田修理で、母里太兵衛ほか七名の請取衆が随行し、旧城主小早川秀秋側の家臣から検地帳の引渡しが行われたという。同文書によると、翌年六月頃に一組四人ないし五人の「御普請番組」三組が決められ、三交替で「福岡」に詰めることを命じられた。これは当城の築城にかかわるものとみられ、名島在城の早い時期に福岡築城が計画された。同年九月一五日の黒田如水書状(妙行寺文書)には、甲斐守(長政)は居城の取替えで家臣共々おおわらわであると記される。新たな築城の理由は、名島城は乱世にはふさわしい要害であるが、城下が手狭で、今後の領国経営には政治的・経済的に余裕のある堅固な城下町形成が必要であったことによる。城地の候補には住吉すみよし(現博多区)箱崎はこざき(現東区)荒津あらつ(荒戸山)もあがったが、背後に赤坂あかさか山を控えた福崎の地が選ばれ、黒田家ゆかりの備前国邑久おく郡福岡(現岡山県長船町)にちなんで地名は福岡と改称された(以上「新訂黒田家譜」「続風土記」)。「続風土記」の「名島城址」の項に「名島の城の石塁楼等悉く崩して福岡に運漕せり」とあり、築城の際に元寇防塁や古墳の石材も使用されたことが記される。慶長七年に長政夫妻は東の丸(のちの三の丸の東端部、現在の福岡高等裁判所敷地)から完成した本丸に移り、同年一一月に東の丸を産所として二代藩主忠之が生れた(「新訂黒田家譜」など)。したがってこれ以前に本丸の「普請」(土木工事)と「作事」(建物建築工事)は終わっていたことになる。その後築城工事は資材を搬入し、残土を搬出する必要性から二の丸、三の丸、周囲の堀へと中心部から外側へと同心円状に進められたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「福岡城跡」の解説

ふくおかじょうあと【福岡城跡】


福岡県福岡市中央区城内にある城跡。別名、舞鶴(まいづる)城。市の中心部、那珂川の西側にある福崎丘陵に築かれている。関ヶ原の戦いの功績で筑前国を得た黒田孝高(よしたか)・長政父子が、1601年(慶長6)に築城を開始し、6年後の1607年(慶長12)に完成した。築城に際して、黒田家再興の地である備前国福岡の地名にちなみ、福崎を福岡と改め、福岡城は江戸時代を通じて福岡藩黒田氏の居城となった。本丸を囲むように二の丸、その外に三の丸を配し、高さ5~15mに及ぶ石垣がそれらの境界となり、47もの櫓(やぐら)があった。東側は那珂川が流れ、西側は干潟を掘って大堀とし、四周が水堀で囲まれた広大な縄張りであった。そして、外様大名であった黒田氏は幕府の警戒を懸念して、天守を建てなかったといわれているが、一度建てられた後に解体されたと推測できる資料が見つかっている。多数の門や櫓が現存し、1854年(嘉永7)に改修された多聞櫓と二の丸南隅櫓は、南丸多聞櫓の名称で重要文化財になっており、城跡は舞鶴公園として親しまれている。1957年(昭和32)に国の史跡に指定され、1982年(昭和57)に指定範囲の追加があった。福岡市地下鉄空港線大濠公園駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報