有栖川宮熾仁親王(読み)ありすがわのみやたるひとしんのう

精選版 日本国語大辞典 「有栖川宮熾仁親王」の意味・読み・例文・類語

ありすがわのみや‐たるひとしんのう【有栖川宮熾仁親王】

有栖川宮幟仁(たかひと)親王長子安政条約の際に攘夷論主張王政復古とともに総裁職に就任戊辰(ぼしん)戦争では東征大総督、会津征討大総督、西南戦争でも征討総督となる。のち陸軍大将、参謀総長天保六~明治二八年(一八三五‐九五

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デジタル大辞泉 「有栖川宮熾仁親王」の意味・読み・例文・類語

ありすがわのみやたるひと‐しんのう〔ありすがはのみやたるひとシンワウ〕【有栖川宮熾仁親王】

[1835~1895]有栖川宮9代親王。幕末攘夷じょういを主張。王政復古とともに総裁職に就任した。戊辰ぼしん戦争で東征大総督。のち、参謀総長などを歴任

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「有栖川宮熾仁親王」の意味・わかりやすい解説

有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう

[生]天保6(1835).京都
[没]1895.1.24.
有栖川宮第9世。幟仁 (たかひと) 親王の第1王子。嘉永1 (1848) 年仁孝天皇の猶子,翌年親王宣下。同4年仁孝天皇皇女和宮親子内親王と婚約したが,和宮が将軍徳川家茂に降嫁のため沙汰止みとなる (→和宮降嫁問題 ) 。幕末以来国事に奔走禁門の変朝譴 (ちょうけん) をこうむったが,王政復古とともに新政府の総裁職に就任,鳥羽・伏見の戦いには征東大総督として鎮定に功を立てた。のち兵部卿,福岡藩知事,元老院議長を歴任。西南戦争では征討総督,陸軍大将となり,そののち参謀本部長,参謀総長に進み,日清戦争には広島大本営に軍務をとったが,病を得て没した。陵墓は東京都文京区大塚5丁目豊島岡墓地。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「有栖川宮熾仁親王」の意味・わかりやすい解説

有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう
(1835―1895)

幕末・明治時代皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。天保(てんぽう)6年2月19日生まれ。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持。1864年(元治1)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)12月、王政復古とともに総裁職に就任。翌1868年の戊辰(ぼしん)戦争では2月、東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿(ひょうぶきょう)、福岡県知事、元老院議長を務め、1877年(明治10)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。日清(にっしん)戦争中の明治28年1月15日に没した。

[大日方純夫]

『『熾仁親王行実』全2巻(1929・高松宮家)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「有栖川宮熾仁親王」の解説

有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう

1835.2.19~95.1.15

幕末~明治期の皇族・政治家・軍人。有栖川宮第9代。8代幟仁(たかひと)親王の第1王子。幼名歓宮(よしのみや)。1849年(嘉永2)親王宣下で熾仁の名をうける。64年(元治元)国事御用掛,同年の禁門の変で謹慎処分をうけたが,67年(慶応3)王政復古により総裁に就任。翌年戊辰(ぼしん)戦争で東征大総督。75年(明治8)元老院議官,ついで議長。77年西南戦争で征討総督となり,その功により陸軍大将。80年左大臣兼任,82年露国皇帝即位典礼に参列して欧州各国を歴訪。85年内閣制度の発足にともない参謀本部長,のち近衛都督兼任。参謀総長も務めた。日清戦争で陸海全軍の総参謀長となる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「有栖川宮熾仁親王」の解説

有栖川宮熾仁親王 ありすがわのみや-たるひとしんのう

1835-1895 江戸後期-明治時代,有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第1王子。
天保(てんぽう)6年2月19日生まれ。国事御用掛となるが,尊攘(そんじょう)運動を支持し,禁門の変ののち失脚。王政復古後新政府の総裁となり,戊辰(ぼしん)戦争に東征大総督,西南戦争に征討総督として出征した。明治10年陸軍大将,22年参謀総長。明治28年1月15日死去。61歳。幼称は歓宮(よしのみや)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「有栖川宮熾仁親王」の解説

有栖川宮熾仁親王
ありすがわのみやたるひとしんのう

1835〜95
幕末・明治時代の皇族
有栖川宮幟仁 (たかひと) 親王の第1子。王政復古の大号令により三職が置かれると,総裁に就任。戊辰 (ぼしん) 戦争に際しては東征大総督として江戸に入り,江戸城を無血開城させた。以後兵部卿・福岡藩知事・元老院議長などを歴任し,西南戦争で征討総督,日清戦争では総参謀長をつとめた。

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改訂新版 世界大百科事典 「有栖川宮熾仁親王」の意味・わかりやすい解説

有栖川宮熾仁親王 (ありすがわのみやたるひとしんのう)

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百科事典マイペディア 「有栖川宮熾仁親王」の意味・わかりやすい解説

有栖川宮熾仁親王【ありすがわのみやたるひとしんのう】

熾仁親王

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世界大百科事典(旧版)内の有栖川宮熾仁親王の言及

【官軍】より

…1868年(明治1)鳥羽・伏見の戦後,征討大将軍に嘉彰親王が任命され,各地に鎮撫使が派遣された。さらに2月,東征大総督府が置かれ,大総督に有栖川宮熾仁(たるひと)親王が任命され,諸道総督府が設置された。ここに官軍は菊章旗(錦の御旗)を得,指揮体系もととのった。…

【元老院】より

…当初任命された議官は勝安芳,山口尚芳,鳥尾小弥太,三浦梧楼,津田出,河野敏鎌,加藤弘之,後藤象二郎,由利公正,福岡孝弟,吉井友実,陸奥宗光,松岡時敏,副島種臣の14名(ただし勝,副島は辞退)。初め議長は空席で副議長に後藤がなり,議官を増員し,79年有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が初代議長となった。会議の模様は《元老院会議筆記》に記録されたが,これは当初《元老院日誌》に掲載され,のち独立して689号まで刊行。…

※「有栖川宮熾仁親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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