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幕末・明治時代の皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。天保(てんぽう)6年2月19日生まれ。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持。1864年(元治1)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)12月、王政復古とともに総裁職に就任。翌1868年の戊辰(ぼしん)戦争では2月、東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿(ひょうぶきょう)、福岡県知事、元老院議長を務め、1877年(明治10)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。日清(にっしん)戦争中の明治28年1月15日に没した。
[大日方純夫]
『『熾仁親王行実』全2巻(1929・高松宮家)』
1835.2.19~95.1.15
幕末~明治期の皇族・政治家・軍人。有栖川宮第9代。8代幟仁(たかひと)親王の第1王子。幼名歓宮(よしのみや)。1849年(嘉永2)親王宣下で熾仁の名をうける。64年(元治元)国事御用掛,同年の禁門の変で謹慎処分をうけたが,67年(慶応3)王政復古により総裁に就任。翌年戊辰(ぼしん)戦争で東征大総督。75年(明治8)元老院議官,ついで議長。77年西南戦争で征討総督となり,その功により陸軍大将。80年左大臣兼任,82年露国皇帝即位典礼に参列して欧州各国を歴訪。85年内閣制度の発足にともない参謀本部長,のち近衛都督兼任。参謀総長も務めた。日清戦争で陸海全軍の総参謀長となる。
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…1868年(明治1)鳥羽・伏見の戦後,征討大将軍に嘉彰親王が任命され,各地に鎮撫使が派遣された。さらに2月,東征大総督府が置かれ,大総督に有栖川宮熾仁(たるひと)親王が任命され,諸道総督府が設置された。ここに官軍は菊章旗(錦の御旗)を得,指揮体系もととのった。…
…当初任命された議官は勝安芳,山口尚芳,鳥尾小弥太,三浦梧楼,津田出,河野敏鎌,加藤弘之,後藤象二郎,由利公正,福岡孝弟,吉井友実,陸奥宗光,松岡時敏,副島種臣の14名(ただし勝,副島は辞退)。初め議長は空席で副議長に後藤がなり,議官を増員し,79年有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が初代議長となった。会議の模様は《元老院会議筆記》に記録されたが,これは当初《元老院日誌》に掲載され,のち独立して689号まで刊行。…
※「有栖川宮熾仁親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
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