日本歴史地名大系 「福来村」の解説 福来村ふくらいむら 岐阜県:益田郡金山町福来村[現在地名]金山町福来飛騨川東岸にあり、対岸は中切(なかぎり)村。東方山間に福来谷が入り、谷筋に支村野首(のくび)村・奥(おく)村がある。谷筋の道は火打(ひうち)村(現下呂町)に通じ、中山(なかやま)七里開削以前の往還路といわれる。天正一四年(一五八六)金森方の養子喜蔵可重はこの道筋を通って下呂(げろ)(現下呂町)方面へ侵攻する途中、当地で鉄砲により狙撃されている(飛騨国治乱記)。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳に村名はみえず、麻生(あそう)郷野首村があり、高四五石余、うち田二三石余・畑二二石余、物成一四石余。 福来村ふきむら 京都府:舞鶴市池之内地区福来村[現在地名]舞鶴市字福来・福来問屋町(とんやまち)境谷(さかいだに)村の北東、若狭街道沿いに立地する。南に佐武嶽(さぶがたけ)連山をもち、地形がやや北に傾斜しているため、河川による灌漑を行うことができず、山腹に用水池を作って農業用水としている。集落東方山麓に上福来(かみふき)古墳、余内小学校東方丘陵上に福来古墳(二基)があり、いずれも円墳。慶長検地郷村帳に高四二八・六九石「福来村」とみえ、土目録でも同高、内訳は田方三三二石余、畑方七六石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by