稲佐村(読み)いなさむら

日本歴史地名大系 「稲佐村」の解説

稲佐村
いなさむら

[現在地名]長崎市稲佐町・曙町あけぼのまち光町ひかりまち弁天町べんてんまち江の浦町えのうらまち旭町あさひまち平戸小屋町ひらどこやまち

竹久保たけのくぼ村の南にあり、長崎浦の西岸にあたる。江戸時代は幕府領長崎代官支配で、浦上うらかみ村のうち。一六三四年(寛永一一年)八月、長崎でドミニコ会のイタリア人およびスペイン人宣教師が各一人ずつ捕縛されたが、かれらは三年前に島原城主松倉重政のジャンク船で来航して稲佐に潜んでいたもので、これに伴い当地の男女や子供も大村の牢に送られている(平戸オランダ商館の日記)。元禄国絵図に稲佐山悟真ごしん寺、塩硝蔵が記される。享和二年(一八〇二)の長崎絵図に稲佐岳が描かれ、その西に悟真寺の境内がみえる。また浦に面して北からヨコセ、ホウカサキ、ヒエタ、水下みずした、ワレいし、タンラドウ、イナサやま崎などが続く。天保郷帳では浦上村のうちで、安政三年(一八五六)浦上村淵惣竈目録(「御用留」志賀家文書)では竈数三八のうち百姓三六・名子二、家数七二・人数四五八。


稲佐村
いなさむら

[現在地名]玉東町稲佐

木葉このは(二八〇メートル)の南西麓に位置し、南部を木葉川が西流、東は山口やまぐち村、西は安楽寺あんらくじ(現玉名市)、南は中坂門田なかさかもんた(現同上)と接する。三池みいけ往還が南部を東西に抜ける。元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)の国中初米進納所々のうち権大宮司請取分に「いなさ」があり、田作祭の出仕衣裳料に充てられている。応永一六年(一四〇九)四月七日、高瀬たかせ(現玉名市)談義所平等王びようどうおう院に「稲佐村」田地二町が同院門前屋敷などとともに寄進され(「板倉宗寿寄進状」宝成就寺文書)、同日付で代官河上守助の打渡状(同文書)が出されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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