1796年、ドイツ生まれ。医学を学んだ後、オランダ使節団に随行して1823年、医師として長崎・出島のオランダ商館に赴任。鳴滝塾を開設し、近代医学を日本に広めた。日用品や民芸品、動植物標本といった日本に関する膨大な資料をオランダに送り届けた。国禁の日本地図の持ち出しを図った「シーボルト事件」を起こし、29年に国外追放。66年死去。
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ドイツの医者、博物学者。ドイツのウュルツブルクで医学の名門の家に生まれる。父はウュルツブルク大学の生理学教授。1815年ウュルツブルク大学に入学、医学のほか生物学、人類学、民族学、地理学などを勉強した。1820年卒業し、医学博士となった。ハイデングスフェルトで開業したが、日本に関心をもち、渡航の機会をつかんだ。1822年7月ハーグに行き、オランダ領東インドの陸軍軍医外科少佐に任ぜられた。9月23日ロッテルダムを出航、バタビア(ジャカルタ)を経て、1823年(文政6)8月11日長崎出島に上陸した。来日にあたり、日本・オランダ貿易強化のための総合的・科学的研究の使命を帯びていた。東インド会社から幕府への働きかけにより、他のオランダ人には与えられない調査・研究の便宜を得た。まず出島(でじま)のオランダ商館内で、日本人に治療したり医学を教えたりできるようになった。ついで出島を出て、吉雄(よしお)塾、楢林(ならばやし)塾で治療や教育をすることが許され、ついには長崎郊外鳴滝(なるたき)(長崎市鳴滝町)に鳴滝塾をつくり、治療と講義ができるようになった。鳴滝塾には、美馬順三(みまじゅんぞう)、岡研介(けんすけ)、二宮敬作、高野長英、伊東玄朴、石井宗謙(1796―1861)、伊藤圭介(けいすけ)など多数の弟子たちが集まった。弟子たちに研究テーマを与え、オランダ語の論文を提出させ、彼自身の研究資料にした。また長崎近郊の動植物採集を行い、友人、弟子、オランダ商館雇い人に協力を頼んだ。川原慶賀(けいが)には図を描かせた。1826年江戸参府に随行し、その往復で書記ビュルガーHeinrich Bürger(1804―1858)を助手として、動植物の採集、測量、観測などを行った。旅行の往復や江戸滞在中、日本人の学者たちと知識や資料の交換を頻繁に行った。
1828年帰国に際して、長崎港のオランダ船が台風で難破、修理のため積み荷を陸揚げしたとき、シーボルトの荷から、国外持ち出し禁制の品が出て、シーボルト事件が起こった。友人、弟子、通詞(つうじ)のなかに処罰される者が出た。シーボルトは日本追放を言い渡され、1829年12月30日、日本人妻滝(1807―1869)と愛児伊禰(いね)(1827―1903)に別れを告げて、日本を去った。1830年7月7日オランダに帰着した。シーボルトは、多量の資料、標本、生植物を送ったり持ち帰ったりし、これをオランダ政府が買い取った。それらはライデン大学図書館、国立民族博物館、国立腊葉(せきよう)館、ライデン大学植物園、大英博物館、大英図書館などに現存する。帰国後、ライデンに居住し、結婚して3男2女をもった。長男アレキサンダーAlexander(1846―1911)、次男ハインリヒHeinrich(1852―1908)はのちに日本で外交官として活躍した。1859年(安政6)アレキサンダーを伴ってふたたび来日した。晩年ドイツに帰り、ミュンヘンで死亡、墓は同地にある。
シーボルトの日本研究は、『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』にまとめられた。『日本』Nippon20冊(1832~1851)は日本についての総合的研究である。『日本動物誌』Fauna Japonica5巻(1833~1850)は、シーボルトとビュルガーが集めた動物標本をテミンクConraad Jacob Temminck(1778―1858)、シュレーゲルHermann Schlegel(1804―1884)、デ・ハーンWilhelm de Haan(1801―1855)が研究執筆し、シーボルトが編集した。『日本植物誌』Flora Japonica2巻(1835~1870)は、ツッカリーニJoseph Gerhard Zuccarini(1797―1848)の協力を得て、共著として出版した。シーボルトは日本において日本の近代化に貢献し、ケンペル、ツンベルクよりも本格的に、日本、日本の植物・動物について、ヨーロッパに紹介した。
[矢部一郎]
『シーボルト著、呉秀三訳『シーボルト江戸参府紀行』復刻版(1966・雄松堂書店/オンデマンド版・2005・雄松堂出版)』▽『シーボルト著、呉秀三訳『シーボルト日本交通貿易史』復刻版(1966・雄松堂書店/オンデマンド版・2005・雄松堂出版)』▽『岩生成一監修、中井晶夫他訳『日本』6巻、図録3巻(1977~1979・雄松堂書店)』▽『ジーボルト著、斎藤信訳『江戸参府紀行』(平凡社・東洋文庫)』▽『ジーボルト著、斎藤信訳『ジーボルト最後の日本旅行』(平凡社・東洋文庫)』▽『板沢武雄著『シーボルト』(1960/新装版・1988・吉川弘文館)』▽『ハンス・ケルナー著、竹内精一訳『シーボルト父子伝』(1974・創造社)』▽『講談社学術局編『シーボルト「日本」の研究と解説』(1977・講談社)』▽『呉秀三著『シーボルト先生 その生涯と功業』全3巻(平凡社・東洋文庫)』
ドイツの動物学者。ドイツ語の読みではジーボルトという。ベルリン大学、ゲッティンゲン大学に学んで医師となり、エルランゲン大学、ミュンヘン大学の解剖学および動物学教授を歴任。おもに無脊椎(むせきつい)動物の比較解剖学と分類学、および寄生虫学に従事した。キュビエの分類による関節動物を節足動物と蠕形(ぜんけい)動物に分け、前者に昆虫類、クモ類、甲殻類を含めた。また放射動物中の滴虫類の区分を廃して植虫類と原生動物に分けた。原生動物Protozoaの語もシーボルトによる。さらに、寄生虫の生活史の研究から、寄生虫が宿主の体の一部から生じるという考えを正した。幕末に来日したシーボルトP. F. B. von Sieboldの叔父。主著に『無脊椎動物比較解剖学』(1848)がある。
[八杉貞雄]
(村上陽一郎)
(廣瀬靖子)
(内海孝)
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江戸後期にオランダ東インド会社の日本商館付医員として来日したドイツ人医師。ドイツ語の読みはジーボルト。南ドイツのビュルツブルクに生まれる。大学卒業後,1823年ジャワに渡り,同年(文政6)長崎に来航。出島の商館勤務のかたわら,許可を得て長崎郊外鳴滝に学塾兼診療所(鳴滝塾)を開設した。吉雄権之助らオランダ通詞をはじめ,美馬順三,高野長英,伊東玄朴,高良斎ら多数の日本人を蘭学者として育成,門人たちに課題を与えてオランダ語による論文を提出させた。これら提出論文とおびただしい収集資料にもとづいて日本研究を進め,26年春,商館長ド・ステュルレルの江戸参府に従い,江戸で天文方高橋景保,幕医土生玄碩(はぶげんせき)はじめ蘭学者と交際を深めた。28年,いわゆるシーボルト事件が起こって,翌年国外追放を受けた。オランダに戻り,研究成果を整理して大著《日本》を刊行(1832-52),《日本動物誌》《日本植物誌》をまとめた。58年(安政5)日蘭通商条約が締結されると,翌年再び来日,62年まで滞在。同行来日した長男アレクサンダーはイギリス駐日公使館員となり,次いで明治政府の外務省に雇用された。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)との間にできた娘いねは,楠本いねといい,のち女医となった。彼の《江戸参府紀行》は《異国叢書》と《東洋文庫》に収録され,《シーボルト日本交通貿易史》も《異国叢書》に収録されている。
執筆者:片桐 一男
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1796.2.17~1866.10.18
ドイツ人医師・博物学者。ビュルツブルク出身。1823年(文政6)オランダ商館付医師として長崎に着任。日本の歴史・地理・言語・動植物などを研究。翌年,鳴滝(なるたき)塾を開き,診療のかたわら岡研介・高良斎(こうりょうさい)・二宮敬作・高野長英ら数十人の門人に医学・博物学を教授し,蘭学発展に大いに貢献した。26年商館長に従い江戸に参府,桂川甫賢(ほけん)・大槻玄沢・高橋景保(かげやす)らと交流。28年の帰国の際,「大日本沿海輿地全図」などの禁制品を持ち帰ろうとしたことが発覚し,翌年国外追放(シーボルト事件)。59年(安政6)オランダ商事会社顧問として再来日。江戸幕府の外交にも参与し,62年(文久2)帰国。ミュンヘンで没した。著書「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」。
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…日本で〈〉の漢字を当てるのはこのためだとする説もある。シーボルトはアジサイをHydrangea otaksaと名づけたが,この〈オタクサ〉は彼の愛人だった長崎丸山の遊女〈お滝さん〉(本名楠本滝)に由来する。なおアジサイの語源には諸説あるが,《大言海》にある〈集(あづ)真(さ)藍(あい)の意〉という説が有力視されている。…
…本草を水谷豊文,蘭学を藤林泰助,吉雄常三,野村立栄に学ぶ。1827年(文政10)長崎でシーボルトに学ぶ。名古屋の本草家の同好会嘗百社(しようひやくしや)の研究活動の中心となる。…
…これは未測量の九州以外について忠敬の測量結果を用い,在来の種々の国絵図を参考にして高橋景保が1809年(文化6)編修したものであり,〈日本輿地図藁(仮製日本輿地全図)〉と呼ばれる。 1829年(文政12),シーボルトが帰国する際,その所持品の中に伊能特小図の写しがあることが発覚して,この地図を与えた高橋景保は捕らえられて翌年獄死した。しかしシーボルトはこの図が押収されることを予知し,徹夜で写してバタビアへ送った。…
…1758年(宝暦8)並木正三が回り舞台を創案して大当りした。1826年(文政9)江戸参府の途次シーボルトが《妹背山婦女庭訓》を見物した劇場。大西芝居の衰退後も,幕末まで一貫して中の芝居(中座)と共に大芝居の劇場として隆盛を保つ。…
…通称登与助,字は種美,聴月楼主人ともいい,のち田口氏を称した。石崎融思に絵を学んだが,1823年(文政6)に来朝したシーボルトに画才を見いだされ,オランダ商館への出入りも許された。25年にはシーボルトがジャワから呼びよせたオランダ人画家フィレネーフェK.H.Villeneuveに洋風画法を学ぶ。…
…図は画工が,クジラを実見し,写生したものがもとになっている。来日したP.F.vonシーボルトは日本のクジラに関心をもち,門人の高野長英,石井宗謙,岡研介たちにクジラに関する論文を書かせた。シーボルトは,論文から得た知識を自著《日本Nippon》(1832‐52),《日本動物誌Fauna Japonica》(1833‐50)で利用している。…
…しかしその試みは必ずしも成功しなかった。1826年シーボルトが日本で入手した茶種をジャワに送ったところ,翌27年1500本の茶樹が育った。またヤコブソンによる中国からの移植も成功し,それがその後のインドネシアの茶産業の基礎となった。…
…のち,イギリスのJ.ラボックは,石器時代を旧石器時代と新石器時代とに分け(1865),またイギリスのH.M.ウェストロップが両者間に中石器時代の存在を提唱した(1872)。日本に石器時代が存在したことは,P.F.vonシーボルトの《日本》(1832‐51)で初めて指摘された。明治時代には,石期,石属世期などの呼称もあったが,三宅米吉が石器時代とよんで(1894)以来この名が普及した。…
…彼は1690年(元禄3)オランダ商館医師として来日,2年間の滞在の間に《日本誌》を著した。次いで1822年同じく医師として来たシーボルトは,鳴滝に塾を開き,多くの門人に医学をはじめ西洋の科学技術を伝授して,日本文化に大きな影響を与えた。また彼は,長崎から江戸への参府紀行を記すとともに,弟子たちに日本の歴史,地理,神話,動植物等についての報告書を提出させ,それに基づいて名著《日本》《日本植物誌》《日本動物誌》を世に問うた。…
…シーボルトが長崎に設けた学舎。シーボルトは1823年(文政6)に出島商館付医師として日本に着任し,長崎奉行の特別の好意により,はじめ商館の外科室で,ついで市内の外科医吉雄幸載および楢林宗建の私塾を借りて,患者の診療と医学生の教育にあたった。…
…シーボルトの著書。原題は《Nippon》。…
…特殊なものとしては,19世紀末からレコードが普及するまで一時流行したロール紙を使った自動ピアノ(ピアノラ)や,弦振動を電気的に増幅する電気ピアノ,電子音の合成により人工的に音を作り出す電子ピアノなどがあり,とくに電子ピアノは音楽教育やポピュラー音楽でもよく使用されている。
【日本におけるピアノ】
日本にピアノが伝来したのは幕末期で,シーボルトが1823年(文政6)に持参したものがおそらく現存最古のものと思われる(萩市熊谷美術館)。80年には音楽取調掛の教師として来日したメーソンLuther Whiting Mason(1818‐96)がアップライト・ピアノを持参しており,その後同掛でもアメリカからスクエア・ピアノを10台購入している。…
…ドイツのビュルツブルク生れのオランダ人で,初期の日本学者。1830年アムステルダムでP.F.vonシーボルトに会ってその助手となり,のちライデン大学教授として日本学の講座を担当した。彼はシーボルトの大作《日本》(1832‐51)の編集・刊行に協力したほか,日本書のオランダ訳の刊行にも尽力したが,とくにその著《日本文法Japansche Spraakleer》(1867)は,この方面における画期的な労作として記憶さるべきものである。…
…98年近藤重蔵とともに択捉島に渡り,1805(文化2),06年目付遠山景晋(かげみち)の西蝦夷地調査を案内し,07年には箱館奉行支配調役並となり,ロシア船来航に際し斜里,樺太に派遣されて諸藩兵の監察にあたった。26年(文政9)シーボルトが江戸に来たとき,その求めに応じて自分の蝦夷地測量図を貸し,アイヌ語辞典編纂を援助した。シーボルトはその著《日本》にこれらのことを載せ,徳内の業績をたたえた。…
※「シーボルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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