コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

稲葉氏

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

稲葉氏

臼杵城を居城に廃藩置県まで15代にわたり臼杵藩を統治した。1600(慶長5)年の関ケ原の合戦後、美濃(現在の岐阜県の一部)から入封した。

(2013-03-14 朝日新聞 朝刊 大分全県 1地方)

出典 朝日新聞掲載「キーワード」朝日新聞掲載「キーワード」について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

いなばうじ【稲葉氏】

江戸時代の大名家。伊予にあって越智(おち)氏を称したが,1464年(寛正5)美濃に移り,守護土岐成頼に仕え,のち稲葉と改姓した。土岐氏没落の後は,斎藤氏織田氏,豊臣氏と主を変え,貞通は1588年(天正16)美濃国郡上(ぐじよう)八幡4万石の城主となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦では,当初西軍,合戦前に東軍に加わった。戦後,豊後臼杵5万石に転封江戸時代を通じて領地は変わらず明治維新を迎えた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

稲葉氏
いなばうじ

江戸時代の大名。先祖は代々美濃国土岐(とき)氏に属し、土岐氏没落後斎藤、織田氏と主家をかえ、良通(よしみち)(稲葉一鉄)のとき豊臣秀吉に仕え、美濃郡上八幡(ぐじょうはちまん)城主となった。
(1)良通の子貞通(さだみち)は関ヶ原の戦で東軍に属し、戦後豊後国(ぶんごのくに)臼杵(うすき)に移り(4万石)、同地で15代続いた(臼杵藩(うすきはん))。
(2)貞通の庶兄重通(しげみち)の子正成(まさなり)は関ヶ原の戦の功により、1607年(慶長12)美濃で1万石を賜り、その子稲葉正勝は老中を務め、1632年(寛永9)相模国(さがみのくに)小田原で8万5000石を領した。1723年(享保8)正知(まさとも)のとき、山城国淀(よど)10万2000石となり代々同地を領した(淀藩)。最後の藩主稲葉正邦は老中となった。
(3)稲葉正勝の嫡子正則(まさのり)の三男稲葉正員(まさかず)は、1683年(天和3)3000石を分与され幕府寄合(よりあい)に列し、1781年(天明元)正明(まさあき)のとき安房国(あわのくに)館山(たてやま)で1万石を領し、5代続いた(館山藩)。[小池 進]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の稲葉氏の言及

【成田[市]】より

…1590年(天正18)徳川家康の領有に帰し,92年(文禄1)佐倉藩領となり維新期まで同領。藩主稲葉氏は新勝寺を保護し,1705年(宝永2)に寺領50石を寄進した。同寺の最初の江戸出開帳は1703年(元禄16)で,以後,出開帳や居開帳などを通じて,近郷近在だけでなく江戸町人の信仰を得て,村もしだいに門前町化した。…

【淀藩】より

…石川憲之は畿内大名として延宝(1673‐81)の畿内総検地では山城検地を担当し,また元禄(1688‐1704)の国絵図作成でも山城国を担当して,永井氏とは異なる意味で幕府政治に直接関与した。1711年(正徳1)戸田光熙が,17年(享保2)松平乗邑(のりさと)が入封したが,23年稲葉氏が入封し,幕末・明治まで淀藩主として続いた。稲葉氏は徳川譜代で石高10万2000石の大名であり,正諶(まさのぶ),正邦ら歴代藩主で所司代や老中となり幕政を担当するものも出た。…

※「稲葉氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

稲葉氏の関連キーワード大分県臼杵市久須美三郎大分(県)臼杵[市]荒井鳴門福知山藩小田原城小田原藩臼杵煎餅糸魚川藩相模国臼杵市山城国田丸城高田城安房国館山市館山藩佐倉藩高田藩

今日のキーワード

いい夫婦の日

11月22日。通商産業省(現経済産業省)が制定。パートナーへの感謝の意を示し、絆を深める。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

稲葉氏の関連情報