改訂新版 世界大百科事典 「穂井田忠友」の意味・わかりやすい解説
穂井田忠友 (ほいだただとも)
生没年:1792-1847(寛政4-弘化4)
江戸後期の考古家。通称久間次郎,のち靱負また縹助,号は蓼莪。父小原東作は備中国下道郡の生れで,代官の手代として各地を転任したが,次男の忠友は摂津生玉神社の社司の家を継いで,穂井田を称した。1811年(文化8)駿府で平田篤胤に入門して国学を学んだ。また藤林紀元に西洋医学を学び,和歌は香川景樹について桂園派の逸材と称された。しかし彼が最も力を注いだのは奈良朝の事物の研究で,その博識により〈ならや〉と呼ばれた。文政年間(1818-30)には京都に住み,多くの好古家との交友があったが,なかでも禁裏付であった梶野良材から多大の便宜を得た。梶野が奈良奉行になると居を奉行所の中に移し,33年(天保4)より36年までの正倉院宝庫の修理の際に宝物の調査に従事した。《正倉院文書》正集45巻の整理と《東大寺文書》の調査により,各種の写本を作って流布させたことは,奈良時代の古文書をはじめて紹介したものとして功績は大きい。47年9月19日京都で没。京都市中京区誓願寺に墓がある。著述は《中外銭史》(1831),《高ねおろし》(1834),《埋麝発香》(1840),《観古雑帖》(1841),《勝地臆断》等。
執筆者:皆川 完一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報