日本歴史地名大系 「穆佐院」の解説
穆佐院
むかさいん
現高岡町南東部から宮崎市西部にかけての地域に比定される。建久図田帳には島津庄寄郡として諸県郡の穆佐院三〇〇町がみえ、地頭は島津忠久であった。忠久は建久九年(一一九八)二月二二日、穆佐院郡司名田をも宛行われた(「関東御教書案」島津家文書)。文保二年(一三一八)六月五日の日向在国司所職注文(土持文書)では穆佐院の算失米一三石・雑事米三石と計上されている。
鎌倉幕府の崩壊により穆佐院は足利氏直轄領に編入された。建武二年(一三三五)一二月二四日、新田方に与力する伊東祐広らが「足利殿御領穆佐院」に押寄せ穆佐院政所に籠城した。同月晦日土持宣栄らは同所を攻めて伊東氏らを追落し、祐広の親類若党数十人を討取った。翌三年一月一〇日・一一日には新田方の肝付氏の軍勢数百騎が穆佐城に攻め寄せたが、土持氏らは城を守った(建武三年二月七日「土持宣栄軍忠状」旧記雑録)。なお土持氏所持文書書上(土持文書)によれば、南北朝前期土持宣栄らが伊東氏らと「穆佐之城嶋津之惣庄政所殿」と戦い、穆佐を占領した際の軍功により足利尊氏から与えられた感状があったと伝えている。建武四年四月一四日、北朝方の日向国大将畠山義顕(直顕)が穆佐城に入ったと伝える(日向記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報