朝日日本歴史人物事典 「竹前権兵衛」の解説
竹前権兵衛
生年:延宝7(1679)
江戸中期の越後国(新潟県)紫雲寺潟新田の開発者。名は屋栄。信濃国米子村(須坂市)の人。幕府領滝山(同市米子町)硫黄運上場を請負い,享保4(1719)年きわめて純度の高い鷹目硫黄5000貫を幕府に上納して与えられた金1666両余を元手に紫雲寺潟干拓を計画,弟小八郎を願人として同11年幕府へ出願。江戸の成田佐左衛門,柏崎の宮川四郎兵衛の協力を得て工事を開始,落堀を浚渫,また紫雲寺潟へ流入する境川を締め切った。しかし新発田藩の反対および潟縁の村々から争論が起こり,小八郎はこれらの問題解決に奔走中,14年3月に他界,兄権兵衛が事業を継承した。15年12月新発田藩は阿賀野川の松ケ崎悪水吐で排水する工事を完成,17年春には洪水で境川締め切り堤防が破れ,落堀の川床が3.6m余も削られて潟水が急速に減少し,はからずも3分の2が干潟となった。権兵衛はさらに残りの湛水地干拓を計画したが,幕府は潟を全面収公,権兵衛には無地代で500町歩を与えた。権兵衛はこのうち150町歩を宮川に,50町歩を成田に分かち,残りを開発して米子,中島,竹島,苔実の4新田村を立て,その庄屋となった。幕府は残る1437haを後願人を募って開発させた。<参考文献>『加治川治水沿革史』『新潟県史』
(小村弌)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報