浄瑠璃作者。別号千柳,市中庵。家名は松屋。もと備後三原の臨済宗成就寺の僧で,断継と称し(角田一郎《並木宗輔伝の研究》),還俗して豊竹座の作者となる。西沢一風門人と伝えるが,あるいは1725年(享保10)に豊竹座を辞した田中千柳の門人か。
1726年にはじめて西沢一風,安田蛙文と《北条時頼記》を合作,9ヵ月続演の大当りをとり,以後,一風に代わる豊竹座の立作者となり,32年までに蛙文を脇作者として14編を著す。この時期は習作時代ながら,《義経千本桜》の先行作《清和源氏十五段》(1727),《蒲冠者藤戸合戦》(1730),《仮名手本忠臣蔵》の先行作《忠臣金(こがねの)短冊》(1732),当り作《摂津国(つのくに)長柄人柱》(1727),暗い宿命観を描く《南都十三鐘》(1728)などは注目すべき作品である。33年から35年までは,門人並木丈輔を脇作者として,単独作,添削などを含めて6編を著した。《那須与市西海硯》(1734。〈乳母争い〉),《南蛮鉄後藤目貫》(1735。現行曲《義経腰越状》の原型,大坂落城物で上演禁止を受けた),《苅萱桑門筑紫𨏍(かるかやどうしんつくしのいえづと)》(1735。〈守宮(いもり)酒〉〈高野山〉)などは今日まで舞台に残る名作である。36年(元文1)から40年までは,単独作7編,添削1編を著し,《和田合戦女舞鶴》(1736。〈市若切腹〉),《釜淵双級巴(ふたつどもえ)》(1737。〈継子責〉〈釜煎〉),《奥州秀衡有鬙壻(うはつのはなむこ)》(1739。淡路にのみ残る曲),《鶊山(ひばりやま)姫捨松》(1740。〈中将姫雪責〉)などが,今日まで舞台に生命を保っている。豊竹座時代の並木宗輔の作風は,人間の本能の激しさや罪業の深さ,封建社会の矛盾等を鋭くえぐり,緻密な構成と写実的な筆致で描き出すために,概して暗く,悲観主義的傾向が強い。しかし豊竹座の座本で,座頭太夫の豊竹越前少掾(初世若太夫)は,その美声と表現力をもって,宗輔の暗い内容の戯曲に甘美な東風の節付を施し,興行成績を上げつつ上演を続けた。
1741年(寛保1)には,宗輔の作家活動が停止した。豊竹座の立作者は為永太郎兵衛に代わり,宗輔は翌42年,補導の形で太郎兵衛の脇作者として《道成寺現在蛇鱗(うろこ)》(現行の景事《日高川》の原型)など3作を書き,また越前少掾に同行して江戸肥前座におもむいたが,この年限りで豊竹座を辞し,歌舞伎作者に転じた。
1742年(寛保2)末から大坂岩井半四郎座,43年末から大坂中村十蔵座の立作者となり,安田蛙文,並木栄(永)輔らと合作し,《大井川三組盃》《大門口鎧襲(よろいがさね)》(ともに1743)などの秀作を世に問うた。後者は初世沢村宗十郎の油計り庄九郎が大好評を博し,セリ上げを効果に用いた初期の例としても知られている。
1745年(延享2)に浄瑠璃界に復帰,並木千柳と改め,豊竹座に対立する竹本座の作者となり,50年(寛延3)までに2世竹田出雲,三好松洛らとの合作で,10作(ほかに江戸肥前座のために1作)を著した。延享・寛延期(1744-51)は〈操り段々流行して歌舞伎はなきが如し〉(《浄瑠璃譜》)といわれた時代であるが,この人形浄瑠璃全盛期を現出せしめた戯曲面の主力が並木宗輔で,《菅原伝授手習鑑》(1746),《義経千本桜》(1747),《仮名手本忠臣蔵》(1748)および《軍法富士見西行》(1745),《夏祭浪花鑑》(1745),《楠昔噺》(1746),《いろは日蓮記》(1747,江戸肥前座,現行曲《日蓮聖人御法海》),《双蝶々曲輪日記》(1749),《源平布引滝》(1749)と,日本戯曲史上の傑作が次々と生み出された。これらの作品は,義太夫,近松以来の竹本座の伝統と,人形遣い吉田文三郎,太夫竹本此太夫ら優秀な演技陣とに相応した,雄大で変化に富む構想,均斉のとれた構成,華やかな舞台表現等を備え,主題の面では,豊竹座時代の暗さが緩和され,一種の無常観に立って,巨大な運命の前に弱小な存在にすぎぬ人間の営みを淡々と描くに至っている。なお《菅原伝授手習鑑》《義経千本桜》《仮名手本忠臣蔵》《双蝶々曲輪日記》は,正本署名上では元祖および2世竹田出雲が立作者の形をとっているが,作風,作家経験,出雲の座本としての立場などを勘案すると,いずれも実質的立作者は宗輔と考えられる。
1750年(寛延3)《文武世継梅》を最後に竹本座を離れ,並木宗輔の名に復して豊竹座に帰り,51年《一谷嫩軍記》を三段目まで執筆したが,完成を見ずに9月7日に没した。墓は大阪市中央区中寺町より移転,現在は枚方市田口山の本覚寺にある。
並木宗輔は,近松門左衛門につぐわが国の代表的戯曲作家で,その作品の多くが歌舞伎の主要演目ともなっているが,彼自体は,劇と語り物の接点に立つ人形浄瑠璃の本質を,もっともきびしく追求した作者であった。豊竹座時代は,推理劇的ともいわれるような複雑な構成,繊細な心理描写,写実的筆致等をもって,人形浄瑠璃の近世演劇的可能性を探求したが,竹本座時代以後は,浄瑠璃の原点というべき中世叙事詩(《平家物語》など)への回帰を意図し,語り手の視点を重んじた作法が見られるようになった。
執筆者:内山 美樹子
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江戸中期の浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎(かぶき)作者。別号千柳(せんりゅう)。若いころは僧で、30歳ころ還俗(げんぞく)して豊竹(とよたけ)座の作者となり、並木宗助(のちに宗輔)と称した。1726年(享保11)『北条時頼記(じらいき)』で大当りをとり、以来立(たて)作者となって活躍し『苅萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくしのいえづと)』『釜淵双級巴(かまがふちふたつどもえ)』『鷓山姫捨松(ひばりやまひめすてまつ)』などを発表。42年(寛保2)から歌舞伎作者に転じて『大門口鎧襲(おおもんぐちよろいがさね)』などを書いたが、45年(延享2)に浄瑠璃界に復帰、豊竹座と対立していた竹本座の作者となって並木千柳と改め、竹田出雲(いずも)、三好松洛(しょうらく)らとの合作で『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』『夏祭浪花鑑(なにわかがみ)』『双蝶々曲輪(ふたつちょうちょうくるわ)日記』などの名作を執筆、人形浄瑠璃全盛期を飾った。なおこれらは初世および2世の出雲が立作者となっているが、実質的には千柳の筆になるものと考えられている。晩年は宗輔の名に復して豊竹座に帰り、『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』を執筆中病没した。生涯の作は浄瑠璃が47編、歌舞伎は10編前後ある。その作風は複雑な筋立てが得意で、歌舞伎の手法を取り入れたスペクタルに富むところが多い。門弟が多く、並木姓を名のる浄瑠璃・歌舞伎作者の祖である。
[山本二郎]
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1695~1751.9.7
宗助とも。江戸中期の浄瑠璃作者。青年期を備後国三原の禅寺ですごす。還俗後大坂豊竹座に入り,1726年(享保11)「北条時頼記」が第1作(合作)。享保期後半~元文期の豊竹座の立作者として活躍。42年(寛保2)末から歌舞伎作者に転じるが,3年後に浄瑠璃作者に復帰,並木千柳(せんりゅう)と名を改め竹本座に入る。竹田出雲・三好松洛(しょうらく)とともに浄瑠璃全盛期の諸作に名を連ねる。51年(宝暦元)並木宗輔の名で再び豊竹座に戻るが,「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」を3段目まで書いたところで没し,絶筆となる。
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…1751年(宝暦1)12月大坂豊竹座初演。並木宗輔,浅田一鳥,浪岡鯨児,並木正三らの合作。宗輔が三段目までを書き,没後に浅田らが完成したと伝えられる。…
…3段。並木宗輔作。角書に〈七条河原〉とある。…
…5段。並木宗輔・並木丈輔合作。1735年(享保20)8月大坂豊竹座初演。…
…音階的には陰旋法)で男性を語るに適し,初世豊竹若太夫は花やかな語り口(東風,陽旋法)で女性の表現に適していた(近石泰秋《操浄瑠璃の研究》参照)。 この期を代表する作者は並木宗輔(千柳)である。享保後期から豊竹座にあって,《苅萱桑門筑紫…
…5段。並木宗輔作。通称《中将姫》。…
…管絃の役の争いから楽人浅間に殺された富士の妻が,敵は太鼓であると,太鼓を打って恨みを慰めるのが主題。浄瑠璃では1733年(享保18)7月豊竹座の並木宗輔作《莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあづまのひながた)》が有名で,これは義太夫正本《弱法師(よろぼし)》の筋と合わせた作品。49年(寛延2)4月竹本座の竹田出雲作《粟島譜嫁入雛形(あわしまけいずよめいりひながた)》はその改訂版。…
…1749年(寛延2)7月大坂竹本座初演。竹田出雲,三好松洛,並木千柳(並木宗輔)合作。《摂陽奇観》にある角力取の濡れ紙長五郎が,武士を殺害した罪で捕らわれた事件に拠っているらしい。…
… 文耕堂は後世の番付面から,竹田出雲の門弟説があるが確証はない。紀海音(きのかいおん),竹田出雲,並木宗輔と並んで浄瑠璃四天王と呼ばれ,浄瑠璃全盛期の時代物作者として活躍したが,源平合戦に取材した地味な作品が多い。単独作は《河内国姥火》《車還合戦桜(くるまがえしかつせんざくら)》《元日金年越(がんじつこがねのとしこし)》《応神天皇八白旗(おうじんてんのうやつのしらはた)》の4作で,世話物は1作,他は合作である。…
…5段。並木宗輔作。1736年(元文1)3月大坂豊竹座初演。…
※「並木宗輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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