フランスの啓蒙(けいもう)思想家。シャンパーニュ地方のラングルで10月5日に生まれる。聖職者になるべく生地のイエズス会系の学校で教育を受けるが、パリへ遊学し、1732年にはパリ大学から教養学士(メートル・エス・アール)の称号を受けた。その後の約10年間、定職につかず苦学を続け、数学と英語の修得に没頭しながらも、家庭教師などで生計を支えた。1743年には、父の反対を押し切ってアンヌ・トアネット・シャンピオンAnne Toinette Champion(1710―1796)と秘密結婚した。このころから英語の読解力を生かしてギリシア史や医学辞典の翻訳に携わり、1745年には、初期のディドロに多大の影響を与えたイギリスの哲学者シャフツベリ伯(3世)の『人間の真価と徳に関する試論』(1699)をフランス語に自由訳し、出版した。
[市川慎一 2015年5月19日]
そのころ、イギリスで好評を博したチェンバーズ編の百科事典『サイクロピーディア』Cyclopædia(初版1728年)のフランス語訳刊行を企画したル・ブルトンAndré Le Breton(1708―1779)の依頼で、彼は、親友で著名な数学者ダランベールを誘い、これに参画した。当初、両人は編集の下働きにすぎなかったが、監修者の更迭と企画変更に伴い、ディドロとダランベールは、フランス人によるオリジナルな『百科全書』L'Encyclopédieの刊行に着手した。1751年の第1巻から本文17巻、図版11巻、計28巻の刊行(1772)まで、ディドロは『百科全書』の完成に心血を注いだので、彼の一生の大半は文字どおり、世紀のこの大事業に捧(ささ)げられたといえよう。
『百科全書』の責任編集を続ける一方で、彼は哲学的には有神論から無神論へ傾斜しつつあったが、1749年に、匿名で刊行した『盲人に関する書簡』Lettre sur les Aveugles à l'usage de ceux qui voientのために、危険思想の持ち主としてパリ郊外のバンセンヌの監房に投獄された。哲学上の著作としては、言語機能と美学の諸問題を扱った『聾唖(ろうあ)者に関する書簡』Lettre sur les sourds et les muets(1751)、思弁的学問よりも実験的学問の優位を説いた『自然の解釈に関する思索』Pensées sur l'Interprétation de la Nature(1753)を経て、彼の唯物論への傾斜は、連作『ダランベールの夢』(1769)および『生理学の基礎』Éléments de physiologie(1778~1784)に至って頂点に達した。
[市川慎一 2015年5月19日]
文学作品として、初期には小説『不謹慎な宝石』Les Bijoux indiscrets(1748)を残しているが、『修道女』La Religieuse(1760)を契機に作家としての自信を深めたディドロは、傑作『ラモーの甥(おい)』(起稿1762年)、『宿命論者ジャックとその主人』Jacques le fataliste et son maître(起稿1771年、刊行1796年)などを書いた。物語作品のほかに、彼は劇作にも並々ならぬ意欲を示し、自ら戯曲『私生児』Le Fils naturel(1757)、『家長』Le Père de famille(1758)を執筆した。この分野では、彼が表明した劇理論、つまり、古典劇の悲劇と喜劇との中間に設けた「まじめなジャンル」の創唱により、いわゆる市民劇(ドラム)の理論家として知られ、これはドイツの劇作家G・E・レッシングに引き継がれ、隣国で開花した。なお、彼には独自の見解を表明した『俳優に関する逆説』Le Paradoxe sur le comédien(起稿1773年、刊行1830年)もある。
美術関係では『絵画論』(1765)を書いたが、親友グリムFrédéric Grimm(1723―1807)の主宰する『文芸通信』誌に官展評「サロン」Salonsを寄稿し、近代美術評論の形式を築き、ボードレールらに影響を与えた。
晩年、ロシアのペテルブルグに恩人のエカチェリーナ2世を表敬訪問したが、終生の関心は道徳問題で、『セネカ論』(1778)の完成に意欲を燃やし、1784年7月31日パリで他界した。
[市川慎一 2015年5月19日]
『小場瀬卓三・平岡昇他監修『ディドロ著作集』全4巻(1976〜2013・法政大学出版局)』▽『本田喜代治・平岡昇訳『ラモーの甥』(岩波文庫)』▽『新村猛訳『ダランベールの夢』(岩波文庫)』▽『桑原武夫訳・編『百科全書――序論および代表項目』(岩波文庫)』▽『小場瀬卓三著『ディドロ研究 上中』(1961、1972・白水社)』▽『J・プルースト著、平岡昇・市川慎一訳『百科全書』(1979・岩波書店)』▽『中川久定著『ディドロの「セネカ論」』(1980・岩波書店)』▽『中川久定著『人類の知的遺産41 ディドロ』(1985・講談社)』
フランスの思想家,文学者。シャンパーニュ地方ラングルの富裕な刃物師の家に生まれる。パリの高等学校で学んだあと,遊民的生活に身を投じ,住み込み家庭教師,数学の出張教授,説教文の代作などのアルバイトで最低限度の生活を維持しながら,将来の知的発展の素地を形成する。数学・自然科学・英語の勉強,哲学書・文学書の乱読,演劇への熱狂,社会の観察,無名時代のルソー,コンディヤックたちとの交際と,新しい思想を求めての知的会話。まもなく貧しい娘アントアネット・シャンピオンと結婚,新世帯を維持する必要から英語の著作の翻訳家としての仕事に専心する。
このころ,フランスのカトリック教会は,より近代的な主流派と,これに反対するジャンセニスト派の2派に分裂して相互に抗争を続けており,この教会の危機を通して,古いキリスト教の教義は世間の人々に対するかつての一元的支配力をしだいに失っていった。若いディドロの努力は,古いカトリックの世界観に代わるべき,ひとつの新しい原理の探求に向けられていく。彼はまずこの原理をイギリスの有神論者シャフツベリーのうちに求め,《人間の真価と徳に関する試論》の自由訳(1745)を刊行する。ついで彼は,このシャフツベリー的有神論の立場を匿名の哲学的著作群のなかでしだいに深化発展させていく。すなわち《哲学断想》(1746)の理神論,《懐疑論者の散歩道》(1747)のスピノザ主義を経て,最後に《盲人書簡》(1749)の無神論にいたる。この作品では,手術によって視覚を回復した盲人の外界認識の問題が検討され,経験が認識の成立に不可欠の契機であることが論証されている。また,実在の盲人の学者ソンダソンを登場させ,彼の口を借りて神の存在の目的論的・自然神学的証明--宇宙における整然たる秩序の存在から,最高の叡智をもった秩序の創造者,すなわち神の存在を論証する方法--の無効が宣告される。ディドロの主張によれば,宇宙の生成の発端には,無数の無秩序(内部に障害をもった生物)が存在しており,そこにはとうてい神の叡智なるものを認めることができず,かりに現在の世界に,ある程度の秩序が存在しているとしても,それはたんに自然の適者生存の法則の発現の結果にすぎないからである。このような危険思想を,次々と著書のなかで発表したディドロは,ついに1749年夏から約3ヵ月バンセンヌ城の牢獄に投じられる。彼はそこでプラトンの《ソクラテスの弁明》を仏訳し(生前未刊),この翻訳を通して自己の信念を裏切ることなく平然と処刑されたソクラテスへの崇敬を暗黙裏に表明している。釈放されたディドロは,《百科全書》の編集責任者として,編集方針の確定,執筆者への依頼,原稿の検討,校正,政府との交渉などの仕事に没頭,諸分野にわたる学者,技術者の開かれた協働により,政府内部の分裂・対立を巧みに利用しながら反動派の攻撃と粘り強く戦い,ついに大事業に成功した。
《百科全書》編集のかたわら彼のペンは文学に向かう。幸福だった幼年期の思い出,一家の父としての経験,いくつかの恋愛体験,特にソフィー・ボランとのそれ,娘アンジェリックの教育・結婚問題--これらさまざまな人生体験とその反省からえられた知恵が多様なジャンルの創作のなかに開花する。演劇の領域では,《私生児》とその付録《私生児に関する対話》(1756-57),《一家の父》とその付録《劇作論》(1758)を発表し,従来のフランス古典悲劇の理想--時間と場所と筋の統一,十二音綴りの韻文,高貴な人物の登場など--を打破し,演劇というジャンルを新しい市民社会の現実に適合させることを試みた。ついで,18世紀フランス演劇の最高傑作に数えられる《この男,善人なのやら悪人なのやら》(1770-84執筆,生前未刊)を書き,また俳優の演技は感動に頼るべきではなく,知性によって統御されるべきであるとする革新的理論を《俳優に関する逆説》(1769-78)のなかで主張した。小説の分野では,《修道女》(1760-82執筆,生前未刊),《ラモーの甥》(1761-73執筆,生前未刊),《運命論者ジャックとその主人》(1772-73執筆,74改訂,生前未刊)が生みだされる。そこでは,社会の周縁に位置する人物(修道院制度に反抗して脱走する女性,社会の脱落者ラモーの甥,召使ジャック)によって,既成の秩序は疑問のうちに投げ込まれ,転倒され,その混乱のなかからまったく新しい文学的宇宙が誕生する。他方,芸術の原理的諸問題に関する考察は,《百科全書》の項目〈美〉(1751),《聾啞者書簡》(1751)の抽象理論の枠組みを打ち破り,作品の理に即した展覧会評《サロン》(1759-81)となって結実する。また,〈思弁哲学〉の時代の終焉と〈実験哲学〉--自然科学,特に生物学--の時代の到来を予告した《自然の解釈について》(1753-54)に続き,対話体形式の三部作《ダランベールの夢》(1769)が書かれる。この作品では,〈感性〉をそなえた物質によって構成される全自然界--鉱物,植物,動物(人間も含む)--の統一が主張され,生物の発生,人間の意識,種の交配等の問題が,大胆な仮説の形で,しかもいきいきした対話のうちに論議されている。次の《ブーガンビル航海記補遺》(1772-80執筆,生前未刊)では,A,B二人の人物の対話を通して,ヨーロッパ諸国の植民地拡張政策の悪と,キリスト教文明における男女の性的関係に対する抑圧の欺瞞(ぎまん)が徹底的にあばかれる。
晩年のディドロは,ロシアのエカチェリナ2世の厚遇を受け,これに感謝するため,1773-74年にかけて彼女のもとに旅行し,政治・文化的な献策を行い,《エカチェリナ2世のための覚書》(1773)を残した。最晩年のディドロは,残ったすべての生命力をふりしぼって《セネカの生涯に関する試論》(初版1778,再版1782)を執筆する。ディドロは,この最後の文学的遺書のなかで,セネカの生涯--専制的権力を正しい道に導くための努力,そのために受けた迫害,および〈後世〉における自己の名誉の回復とその永続性への確信--とみずからの生涯とを重ね合わせて,一生の最終的意味づけを行った。
執筆者:中川 久定
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1713~84
フランスの代表的啓蒙思想家。『百科全書』の編集者。哲学,科学,創作,文芸批評,美術批評などほとんどあらゆる知的領域にわたって活躍。その思想的立場は経験的合理主義にもとづく唯物論で,体系を欠くとはいえ豊かなダイナミズムに満ちている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…これに対して思想家がみずからの創意によって集団を結成,維持し,その目的を達成したのは,アンシクロペディスト集団が初めてであった。しかもこの集団は,ディドロ,ダランベール,ボルテール,ルソーなどの代表的な啓蒙思想家を動員したばかりでなく,その協力者の幅の広さをもって根本的性格とする。不明の者を除いて以下いくつかの点について見てみよう。…
…一般意思という語は,まずディドロによって,《百科全書》の〈自然法〉の項目において用いられている。彼は一般意思を各個人の特殊意思とは区別して,全人類の一般的かつ共通の利益に基づくものとし,これによって自然法を根拠づけた。…
…庶民の出る劇は喜劇に限るとする伝統を破って市民悲劇が登場するのはブルジョアジーの台頭と軌を一にするが,その早い例の一つ,G.リッロ(1693‐1739)の《ロンドンの商人》(1731)はロンドンはおろか大陸でも大当りし,ドイツのレッシングに市民悲劇の傑作《ミス・サラ・サンプソン》(1755)を書くきっかけを与えた。同じころフランスのD.ディドロは市民生活に題材をとったまじめな劇を提唱し,悲劇でも喜劇でもない新しい〈ドラマdrame〉なるジャンルを定式化した。彼の理論を受けて新興ブルジョアジーの活力を存分に示したのが,大革命間近いころのボーマルシェの《セビリャの理髪師》(1775初演)と《フィガロの結婚》(1784初演)である。…
…フランスでは,モンテスキューが,各国の法と政治の大規模な比較にもとづいてあらためて三権分立の思想の基礎づけをこころみ,ドイツではトマジウスが自然法の考えの普及に大きな役割を果たした。なおモンテスキュー,ディドロらに典型的な例が見られるように,非西欧社会へのとらわれのない見方が一部に定着しつつあることも注目に値しよう。とはいえ,なおブルジョア的個人主義にもとづく啓蒙の社会哲学の一面性,形式性は,ルソーを先駆とするロマン派の一連の共同体論による批判を呼びおこすことになる。…
…概して18世紀の啓蒙的な合理精神からいえば,劇場も道徳教育に役立つことが望ましいのであり,市民劇にはそのような教訓臭も強いのであった。 市民劇drame bourgeoisという言葉を初めて意識的に用いその理論づけを行ったのは,フランスのD.ディドロである。1758年に《一家の父》という喜劇を発表した彼はそれに添えて〈劇芸術について〉という論文を発表し,人間の欠陥を対象とする滑稽な喜劇のほかに,人間の美徳と義務を対象にする〈真面目な喜劇comédie sérieuse〉があり,また,悲劇にも普通人の家庭的不幸を対象とする悲劇があると考えた。…
…第2の見方は,フランス政府主催のサロン(官展)が隆盛になった18世紀中葉から,サロン評の小冊子が現れたことをもって近代的批評の淵源とする。わけてもディドロの《サロン評》(1759‐81)は,作品の記述・批判を主体としつつも,グルーズやダビッドの称揚を通じてフランス絵画のとるべき方向を示唆したり,シャルダンを対象として純粋に絵画的な価値を表現する言説を模索したりした。しかし,ディドロの批評は少数の特権的読者を相手にしたものであり,19世紀に不特定多数の顧客を対象とする絵画市場がしだいに成立し,それと並行して新聞・雑誌のジャーナリズムが盛んになった時点で,初めて現代的な美術批評が成立する。…
…近代的事典の筆頭としては,イギリスのE.チェンバーズの《百科事典Cyclopaedia》2巻(1728)がある。これに範をとり,当初はそのフランス語訳作成の目的で開始された作業は,ディドロ,ダランベールらの手による《百科全書》に結実した。全28巻からなるこの事典は,ディドロによる序文にみられるように,明確な方法意識によって編集されている。…
…ちなみに古典主義劇作術がヨーロッパの規範であったことの痕跡は,たとえばモーツァルトのオペラ・セーリアにうかがうことができる。それに反して,マリボーの喜劇(彼は,L.リッコボーニを団長として再びパリに定住していたイタリア喜劇団のために,そのコメディア・デラルテの〈役者体〉を使って,《偽りの告白》《二重の心変り》等の残酷なまでに洗練された恋の駆引きの遊戯を書く),A.R.ルサージュの〈風刺歌付喜劇(ボードビル)〉をはじめとする市の〈縁日芝居〉(市はサン・ジェルマンやサン・ローランの修道院領内で2ヵ月近く開かれた),そのような〈縁日芝居〉のダイナミックな喜劇性と危険な官能的遊戯を取り返した《フィガロの結婚》によって大革命前夜のパリを沸かせたボーマルシェ,古き悲劇に代わる〈市民劇(ドラム・ブルジョア)〉の理念を提唱し,また俳優という両義的存在について哲学的反省を展開したディドロ(《俳優についての逆説》が書かれた時代は,悲劇女優クレロン嬢の《回想録》を生む時代でもあった),これらが18世紀の変革の側にいる。特に市の芝居の隆盛の結果として,1759年以降,パリ北東の周縁部に当たるタンプル大通りに常設小屋が急増し,市の芝居で当たっていた〈オペラ・コミック〉をはじめとする新旧さまざまな舞台表現の場となり,特に大革命の〈人権宣言〉によって劇場開設権が万人のものと認められて以来(もちろん,まったくそのとおりにいったわけではなかったが),都市の周縁部の〈劇場街〉が,修道院の市のごとき〈宗規的時空〉からまったく自由に,かつ公式の劇場のような国庫補助も受けずに出現し隆盛を誇ったことは,フランス演劇史上の特筆すべき大事件であった。…
…リチャードソンの小説には強い道徳性がその根底にあり,同時に若い男女が性の問題をめぐって相互に,また内的に相克する様子が書簡体的告白の形式を通して詳細に語られる特質がある。18世紀後半のイギリス小説ばかりでなく,ルソーなど大陸の文学にも大きな影響を与え,ディドロは《リチャードソン頌(しよう)》(1762)で〈精神を高め,魂を感動させ,いたるところで善への愛を表している〉と賞賛した。【榎本 太】。…
※「ディドロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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