難船などによって、操縦不能の船上で、または浮遊物につかまり、海上をあてもなくさまようこと。漂流によって陸上に達した場合には漂着であるが、そこが人間社会と隔絶した孤島などのときには、これも漂流に入れる場合もある。
[梶 龍雄]
海上交通も未発達で、船による目的のある長い航行も不能であった時代には、民族の移動や文化の伝播(でんぱ)には、漂流の果たした役割は大きかった。日本民族の成立論などにある、南方系民族の混血説なども、黒潮に乗った漂流によるものである。1947年ノルウェーの考古学者、人類学者ヘイエルダールが、南太平洋諸島先住民の南アメリカからの移動説証明のために、インカ時代の船をかたどったバルサ材の筏(いかだ)コン・ティキ号で意図的に漂流したのも、このためである。その後しだいに文明が発達していった近世に至っても、海を隔てた大陸間や国の間の交通は、かならずしも便利ではなかったから、偶発的な漂流が人類文化の歴史のうえで少なからず大きな役目をした。イギリス人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針(あんじん))が1600年(慶長5)難船によって日本に漂着し、鎖国政策の徳川幕府に仕えて、洋船建設技術や外交に貢献したり、また、逆に1841年(天保12)遭難後した中浜万次郎(ジョン・万次郎)や、1850年(嘉永3)漂流の浜田彦蔵(アメリカ彦蔵)のように、アメリカ船に救助されてアメリカに行き、英語や西欧の事情に通じて、帰国後は開国後の日本で、通辞として活躍したり、外交や文化啓蒙(けいもう)に尽くしたりしたのも、その例である。
[梶 龍雄]
大洋のただ中をさまよう漂流は、筏や漂流物につかまっての海上漂流はもちろん、船上の漂流でも、肉体、精神ともに困苦の極に追い詰められることが多いため、驚異的な話や、ときにかなり潤色された疑いのものもある。漂流は浦島説話を生むことも多い。1719年(享保4)遠州新居(あらい)(現、静岡県湖西(こさい)市)の水夫12人は九十九里浜沖で暴風雨のため遭難漂流し、無人島に漂着して困苦の生活に耐え、仁三郎ほか3人がようやく故郷に帰りついたときには、21年が経過していた。たった1人での水上漂流世界最高耐久記録は、中国人プーン・リームの133日と思われる。1943年、彼の乗っていたイギリス輸送船が、南アフリカ、ケープタウン沖でドイツ潜水艦に撃沈された。浮遊物で筏をつくり、わずかに拾い集めた道具類で雨水をため、針金を曲げて釣り針をつくって魚を釣り、困苦に耐えた彼が救われたのは、大西洋を横断したアマゾン河口沖であった。しかしその際に、体重はわずか4キロ半しか減っていなかったという。
漂流船舶が救助されず乗員全部が死亡すれば幽霊船となる。1926年(大正15)12月千葉県銚子(ちょうし)港を出港したマグロ漁船良栄丸は、翌年の秋に幽霊船としてバンクーバー沖で漂流中を発見された。乗組員は全部白骨体となっていたが、残された航海日誌でその間の経過は判明した。幽霊船のなかには、1913年チリ沖で発見されるまでに23年間も漂流していたイギリス船マールボロー号のような例もある。同船は1890年1月マゼラン海峡で目撃されたのを最後に消息を絶ち、発見時には、船員の何人かの骨のほかは、航海日誌も発見できなかった。漂流事件のなかで世界の大きな謎(なぞ)の一つとされているのはイギリス船マリー・セレスト号の事件で、1872年ポルトガル沖を漂流中を発見されたときには、乗員全部の姿がまったくかき消えていたのに、船内はきれいに整頓されてなんの騒ぎの跡もみられなかった。この解釈をめぐりいろいろの説が出されたが、まだ完全には解けていない。
[梶 龍雄]
漂流には奇異な話、冒険的な話、異国情緒に富んだ話が付きまとうので、漂流の体験を記録した漂流記は数多く残されている。とくに日本の江戸時代の鎖国では、海外の文化や消息の流入は限られていたから、漂流者の体験は貴重なものであった。伊勢(いせ)の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)の、北洋を漂流し、ロシアに保護されて帰国するまでの体験を、幕府の侍医桂川甫周(ほしゅう)が記録した『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』(1794)、仙台藩の蘭学(らんがく)者大槻玄沢(おおつきげんたく)が、津太夫らの漂流とロシアの風物見聞を記録した『環海異聞(かんかいいぶん)』(1807)などがそれである。また、回船、長者丸で太平洋上を漂流し、アメリカ捕鯨船に救助され、ハワイ、ロシアを経て送還された次郎吉以下6人の船乗りの体験は、幕府の儒学者古賀謹一郎(こがきんいちろう)によって記録され『蕃談(ばんだん)』(1849)となったが、同時に漂流民の故郷である富山藩の家臣遠藤高環(たかのり)も、彼らの談話を記録して、『時規物語』(1850)を著した。これらの記録には、漂流者自身の体験ばかりでなく、すでに海外の文化に対して目を開き始めた記録者自身が得た、さまざまな知識も交じり、近づく開国の気運の底流をつくったことも見逃せない。
漂流はまた限界状態における人間の本質性をつく深刻なテーマだけに、小説にもよく扱われる。実在の人物アレクサンダ・セルカークの無人島漂流をヒントに書かれたというデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)、漂流中の飢餓からよくおこるといわれる人肉食いを扱った野上弥生子(やえこ)の『海神丸』(1922)、井伏鱒二(ますじ)の前述の長者丸の漂流記録をヒントにした『漂民宇三郎』(1956)、大黒屋光太夫がテーマの井上靖(やすし)の『おろしや国酔夢譚(すいむたん)』(1968)などがある。
[梶 龍雄]
『荒川秀俊編『異国漂流記集』(1962・吉川弘文館)』▽『荒川秀俊編『日本漂流漂着資料』(1962・地人書館)』▽『荒川秀俊編『近世漂流記集』(1969・法政大学出版局)』▽『川合彦充著『日本漂流記』(社会思想社・現代教養文庫)』▽『庄司浅水著『海の奇談』(社会思想社・現代教養文庫)』▽『室賀信夫・矢守一彦編訳『蕃談』(1965・平凡社・東洋文庫)』
海に浮かぶ物が海流や風に流されていく現象。漂流物により植物分布が拡大していることはよく知られている。また漂流物により海流の状況が明らかになることもある。昔から難船漂流の悲劇は洋の東西を問わずきわめて多い。漂流には学術上の目的で行ったものと,海難事故によるものがあり,前者では1947年T.ヘイエルダールが人類学上の自説を立証するため,〈コン・ティキ号〉と名づけたいかだで太平洋横断を決行した例(《コン・ティキ号探検記》),52年アラン・ボンバールが海の魚とプランクトンだけを食べ,海水と雨水で渇きをしのぎ,単身〈異端者号〉と名づけたゴムボートで大西洋横断漂流に成功した例(《実験漂流記》),日本では数次の漂流実験後,75年斎藤実が〈ヘノカッパⅡ世号〉でサイパン島から沖縄に向かって漂流実験した例(〈漂流実験〉)などが著名である。
四面環海の日本では後者の海難漂流が多く,古くは7世紀の遣唐使船の漂流以来,その例が多く,とくに近世には大量に発生した。漂流中死亡した者が多く,幸い異国に漂着または異国船に救助されて帰国した者もあった。江戸時代にとくに多いのは,日本のおかれている自然条件すなわち海流と気象をはじめ,鎖国の影響,経済や都市の発達,和船の構造上の欠陥などの理由があげられる。季節的には旧暦10月から1月までの4ヵ月間に最も多く,北西季節風の卓越する時期であった。政治都市で消費都市の江戸,商業都市大坂に全国各地から大量の物資とくに年貢米が搬入され,その輸送には陸路よりも海路によるほうが安価で迅速であったし,また東廻,西廻の航路の開発により,沿岸航路の発達と海運業の著しい発達をみた。江戸と大坂,江戸と奥羽地方間の航路には古来難所といわれた熊野灘,遠州灘,鹿島灘などがあり,これらや三陸沖で遭難し遠く吹き流されることが多かった。
鎖国以前の朱印船貿易時代には,日本人は西欧流の航海術や天体観測術を修得し,大船に乗って東南アジアの各地に渡航していた。しかし鎖国とともに進んだ造船術も航海術も消えさり,ひとたび日本の山を見失うと漂流船は自己の位置がわからなくなった。そのうえ和船には舵と外艫に弱点があり,また水密性が欠如していた。大暴風雨で舵を破損し,外艫を破壊される。外艫は船体外部の構造であるためその破壊は沈没には直結しないが,舵の破損で航行能力を失い,外艫の破壊は水の浸入口となり,さらに水密性のない甲板から海水が浸入して水船になる危険があった。また一枚帆の和船は横風帆走や逆風帆走に適さないので,遭難するとまず帆を下ろし,積荷の投棄,排水,帆柱の切捨てなど,暴風雨で揺れ動く船中で危険な作業を行わなければならなかった。舵と帆柱を失った船は,天候が回復しても帆走能力がないから,海流と風に任せて漂流するほかなかった。積荷の投棄,あか水の道,帆柱の切断,進行方向,陸地までの距離,死者の水葬の可否などすべて〈みくじ〉で占い,髪を切り船中の神棚に供え,神仏の加護を祈るほかなく,とくに伊勢大神宮,金毘羅(こんぴら)大権現や各自の信仰する神仏が祈りの対象となった。食料と飲料水の欠乏は死活の問題であり,食料を食べ尽くすと流れる藻を拾い魚を釣り,雨水を蓄えて露命をつないだが,やがて餓死していった。蘭引(らんびき)という蒸留水をとる方法で生き続けた例もあった。
九死に一生を得て異国船に救助されたり,異国に漂着した者は幸運であった。しかし彼らのうち病死する者,異国に残留する者もあり,最後まで希望を捨てずに故国に帰った者は同船者中わずかの人数にすぎなかった。海上漂流期間は16ヵ月間の督乗丸,14ヵ月間の宝順丸,10ヵ月間の観音丸などの長期のものから,中浜万次郎らの7日間程度の短期のものまでさまざまである。漂着地点は北アメリカ,カナダ,アラスカ,アレウト列島,フィリピン諸島,安南,清国,台湾,朝鮮,沿海州など,日本をとりまく全地域に及んでいる。漂流民の中には大黒屋光太夫や津太夫のように長期間抑留され,ロシアの対日外交に利用された者や蝦夷地に送られた者もあったが,多くは清国に送られ長崎に帰着した。彼らは一応国禁を犯した者として密出入国,密貿易,禁制品の有無,キリシタン関係などについて取り調べられた。
その調書や,幕府や諸藩の学者が聞書を作り,分類整理したものなど,一群の記録が一般に〈漂流記〉と総称され,その数はきわめて多い。内容的には漂流そのものより外国事情に重点をおくものが多く,外国誌というべきものが大部分である。鎖国時代の人々が海外事情をありのままに知ることができた資料として貴重である。現存する莫大な漂流記中著名なものには,《韃靼(だつたん)漂流記》《無人島漂流記》《南海紀聞》《北槎聞略(ほくさぶんりやく)》《環海異聞》《永寿丸魯西亜(ロシア)漂流記》《船長(ふなおさ)日記》《時規物語》《蕃談》《東航紀聞》《万次郎漂流記》《彦蔵漂流記》などがあげられる。とくに大黒屋光太夫関係の《北槎聞略》は最高の名著といわれている。
執筆者:池田 晧
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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