笠原白翁(読み)かさはらはくおう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「笠原白翁」の意味・わかりやすい解説

笠原白翁
かさはらはくおう
(1809―1880)

幕末・維新期の医学者。越前(えちぜん)国(福井県)の人。福井藩医。名は良、字(あざな)は子馬、通称良策、白翁は号。1836~1837年(天保7~8)ごろ、加賀国(石川県)山中温泉の大武了玄に蘭学(らんがく)の優れていることを教えられ、京都の日野鼎哉(ていさい)に入門、小石元瑞(げんずい)・新宮凉庭(しんぐうりょうてい)の指導も得た。帰郷後、清(しん)国の洋式種痘(しゅとう)書『引痘略』(邱浩川撰(せん)、1831年)を校刊した『引痘新法全書』(牧春堂著、1846年)を読み、ジェンナー法に感服、1846年(弘化3)藩主松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))に清国より病痘取り寄せの急務進言、春嶽は幕府に伝えた。1849年(嘉永2)長崎に渡来したモーニケ苗が日野鼎哉に届き接種に成功、その分苗を良策が福井へ植え継いだ。藩の仮除痘館総裁となり、「人を活(い)かす道びらき」のため藩外にも村医の協力を得て普及させ、洋方に対する認識を高めさせた。号白翁は、当時牛痘を白神痘とよんだことに由来する。著書に『牛痘問答』(1850)などがある。

[末中哲夫]

『福井県医師会編・刊『福井県医学史』(1968)』

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朝日日本歴史人物事典 「笠原白翁」の解説

笠原白翁

没年:明治13.8.23(1880)
生年:文化6.5(1809)
江戸後期の蘭方医。名は良策,号の白翁は牛痘のラテン語ハクシーネの漢字「白神痘」からとったという。越前国足羽郡深見村(福井市深見町)生まれ。はじめ古医方を修め福井で開業したが,加賀山中において蘭方医大武了玄から西洋医学の長所を聞き,京都の日野鼎哉に蘭学を学んだ。弘化3(1846)年邱浩川の『引痘新法全書』により牛痘により痘瘡(天然痘)予防の可能なことを知り,痘苗輸入の急務なことを福井藩主松平春岳(慶永)に訴え,藩医半井仲庵の斡旋により,願書は春岳にいれられる。嘉永2(1849)年楢林宗建らの尽力で痘苗は長崎に輸入され,白翁は京都の日野鼎哉のもとでこの痘苗を入手,自ら種痘を試みた。当時の痘苗は人から人へと植えつぐ以外は保存の方法がなく,同年11月,接種した子供たちを連れ,雪の栃ノ木峠を決死の覚悟で越え,福井に種痘をもたらした。その後漢方医の妨害はあったが,藩医登用を辞退し町医として力を尽くした白翁によって種痘は次第に広まり,武生,鯖江,敦賀,大野,遠くは金沢,富山にも恩恵をもたらした。江戸時代における牛痘法普及の功績は高く評価される。<著作>『牛痘問答』<参考文献>福井県医師会編『福井県医学史』

(岩治勇一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「笠原白翁」の解説

笠原白翁 かさはら-はくおう

1809-1880 幕末-明治時代の医師。
文化6年5月生まれ。磯野公道に古医方をまなんだあと,京都で日野鼎哉(ていさい)に入門して蘭方医学をおさめる。嘉永(かえい)2年(1849)オランダ商館医師モーニッケのもたらした痘苗を鼎哉より入手,郷里の越前(えちぜん)(福井県)にかえり,種痘を普及させた。明治13年8月23日死去。72歳。名は良。字(あざな)は子馬。通称は良策。別号に至誠堂主人。著作に「牛痘問答」。

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