翻訳|vaccination
痘瘡(とうそう)(天然痘)の予防接種のことで、痘瘡ウイルスよりはるかに弱毒であるワクシニアウイルスの接種により積極的に痘瘡に対する免疫を獲得しようとするものである。1958年から世界保健機関(WHO)を中心に痘瘡根絶計画が全世界的な規模で推進され、1980年に痘瘡根絶宣言が出されたことにより、種痘の必要性はなくなった。
[柳下徳雄]
1796年にイギリスの外科医ジェンナーが、牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を8歳の少年の腕に接種したところ、6週間後に痘瘡菌を接種されても少年は痘瘡にかからなかった。1798年に『牛痘の原因と効果に関する研究』と題する75ページの小冊子を発表したジェンナーは、牛痘接種法の発見者となった。1800年までには6000例に成功し、牛痘接種の有効性が広く認められ、以来、痘瘡の安全な予防法として種痘が行われるようになった。
[柳下徳雄]
中国では明(みん)の末期に人痘を材料とする接種法がかなり普及していたが、1744年(延享1)清(しん)の李仁山(りじんせん)によってこれが長崎に伝えられ、筑前(ちくぜん)国(福岡県)の秋月藩医緒方春朔(おがたしゅんさく)(1748―1810)によって広められた。1795年(寛政7)に刊行された彼の著書『種痘必順弁』は、日本最初の種痘専門書として知られる。しかし、この方法は痘瘡患者から直接得た病毒を健康者に接種するというもので、痘瘡にかかった場合と同じような症状をおこすことが多く、予防接種とはいいがたいきわめて危険な方法であった。
これに対してジェンナーの発見した牛痘接種法は安全率が高く、これがヨーロッパに普及したのは1816年ころであるが、東洋では1805年にイギリスの医者ピアソンAlexander Pearson(1780―1874)が中国の広東(カントン)で施行している。日本では択捉(えとろふ)島の番人小頭(こがしら)でロシア語の通詞(つうじ)をしていた中川五郎治(1768―1848)が、6年間のロシア抑留の際、医者の助手をして牛痘接種法を伝習し、帰国後、1824年(文政7)蝦夷(えぞ)(北海道)に痘瘡が流行したとき施行、これが牛痘接種として日本最初となったが、松前藩から仙台までの住民を救っただけで終わった。一方、佐賀鍋島(なべしま)藩主の鍋島直正(なおまさ)の意を体した藩医楢林宗建(ならばやしそうけん)は、長崎に滞留して出島(でじま)のオランダ館と直接交渉し、痘苗(とうびょう)の入手を図った。オランダの医師モーニケの持参したウィーン製の痘苗は接種に失敗したが、1849年(嘉永2)バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功、佐賀鍋島藩を通じて京都、大坂、江戸などに広まり、長崎苗とかモーニケ苗とよばれて明治まで牛痘接種の原苗となった。
[柳下徳雄]
1909年(明治42)に種痘法が公布され、初めて種痘が法律によって実施されるようになった。予防接種が現在のように組織的に実施されるようになったのは、第二次世界大戦後の1948年(昭和23)からである。その年に予防接種法が公布されたが、予防接種のうちでもとくに種痘は副反応が強いためにしばしば問題とされていた。1970年に、国が定期接種として行っている種痘による事故に対して国の責任を求める動き、いわゆる種痘禍がおこった。かくして1976年予防接種法改正と同時に、国内の接種は実際上中止された。種痘は、改正された予防接種法のなかでも定期接種として残されていたが、世界的な痘瘡の状況から実施を中止したわけである。その後、WHOの痘瘡根絶宣言により、1980年8月には定期接種の種痘が法律から削除され、法的にも完全に廃止された。現在では、法律のなかでは、万一の際、緊急時の臨時種痘を行いうる余地だけが残されている。
[柳下徳雄]
天然痘(痘瘡)に対する予防接種。天然痘は天然痘ウイルスの感染によって引き起こされ,高熱と全身性の水疱性の発疹を主症状とする伝染病である。免疫を有しない個体の感染率は100%に近く,感染した場合,死亡率が高い。天然痘は16世紀ころから,全世界的にみられる流行性疾患となり,この状態が20世紀の前半まで続いた。
天然痘ウイルスは,ポックスウイルス科オルトポックスウイルス属Orthopoxvirusに属し,ヒトのみを自然宿主とする。近縁のウイルスとして,牛痘ウイルス,ワクシニアウイルスがある。牛痘ウイルスは,ウシで乳房に限局した牛痘を引き起こす。牛痘ウイルスは,ヒトに皮膚創傷から感染し,天然痘様の病巣をつくる。ワクシニアウイルスは,牛痘ウイルスにきわめて近縁であるが同一ではない。ワクシニアウイルスは自然界に存在していたウイルスではなく,ヒトと他の動物の間を何回となく継代されている間に,人工的につくり出されたウイルスである。ワクシニアウイルスが天然痘ウイルス由来か,牛痘ウイルス由来かは明確でない。
天然痘は古くから人類に災禍をもたらしてきたために,天然痘予防の試みもまた古くから行われてきた。天然痘の流行を経験するうちに,死をまぬかれた者は二度と天然痘にかからないことが知られるようになり,天然痘患者の膿を予防接種する人痘接種法が,世界各地で行われだした。しかし,この方法は危険性が高く,また新たな流行の源ともなった。18世紀末になって,イギリスの医師E.ジェンナーは,牛痘ウイルス感染を経験したヒトは,天然痘にかからないことを見いだし,牛痘ウイルスを用いる牛痘接種法を編み出した。これ以降,種痘には天然痘ウイルスにかわって牛痘ウイルスが用いられるようになり,現在では,より安全性の高いワクシニアウイルスを用いる接種法が開発されている。天然痘には今日においても特異的治療法がなく,種痘による予防しか対処方法がない。
1958年から世界保健機関(WHO)を中心に全世界的な天然痘根絶計画が進められ,80年には天然痘ウイルスが地上から消滅したという天然痘根絶宣言が出された。天然痘ウイルスが消滅したことによって,種痘の必要性も現在はない。しかし一方,種痘をしていない人間の数が増加するにつれて,天然痘ウイルスが生物兵器として用いられる可能性・危険性の増大が危惧されている。
→天然痘
執筆者:川口 啓明
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…痘瘡(とうそう)ワクチンの接種(種痘)により十分な免疫をもつ人は痘瘡(天然痘)にかからないが,過去に種痘をうけて年月がたち,痘瘡に対する免疫が低下している人が痘瘡に感染した場合は,発病しても通常,症状が軽く,経過も短く,予後もよい。 このような痘瘡を仮痘あるいは軽痘という。…
…ヒトの天然痘ウイルスに似たウイルスによって起こるウシの皮膚疾患。ジェンナーが〈牛痘にかかったから天然痘にかかる心配はない〉という乳搾りの娘の話からヒントを得て,種痘法を開発したことはよく知られている。種痘に用いられる牛痘ウイルスcowpox virusは,長い間ウシ,ヒツジなどの皮膚に植えついだものなので,現在の牛痘ウイルスとは異なってきており,ワクチニアウイルスvaccinia virusとよばれている。…
※「種痘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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