笠神埜原新田
かさがみやわらしんでん
近世初期に成立した一四ヵ新田の総称。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分や元禄郷帳などでは笠神埜原新田と記すが、埜原十四ヵ新田ともいわれる。「利根川図志」には埜原新田とあり、かつては笠神御立埜原と称して年貢米七五俵ずつを納めていたとし、里人は別に十四ヶ新田、略して十四ヶと称したという。一四ヵ村は明治二二年(一八八九)発足の埜原村のうち安食卜杭新田・酒直卜杭新田・小林新田を除いた中根新田・萩原新田・松虫新田・行徳新田・押付新田・和泉屋新田・下曾根新田・佐野屋新田・甚兵衛新田・松木新田・中田切新田・下井新田・長門屋新田・将監新田で、寛文期(一六六一―七三)以降印旛沼周辺の干上り地に開発された。寛文一一年の国手形寺請状改書綴(吉植家文書)によれば、入植者は武蔵国幸手領二八戸・同羽生領一〇戸・上野国館林領一九戸・下総国布川領四八戸・同庄内領一〇戸・同印西領一五戸など一五一戸。現茨城県利根町にあたる布川領の百姓の多いのが注目される。
江戸幕府は関東平野の治水と新田開発のため利根川の中下流域で大規模な河川の整備事業を遂行したが、その過程で多くの百姓が立退きを余儀なくされ、その替地に選ばれたのが埜原新田と布鎌新田(現栄町)であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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